[コース] ISIS花伝所OBI-1 │ 輪読座 │
輪読座

 

 編集工学研究所フェロー 高橋秀元が、輪読と図象ワークに
よって読書を促進する輪読座を開催しています。

 近年、読書が推奨されていますが、読みたくても読めない本があります。そのような難読といわれる日本の古典を中心に、輪読師である高橋のナビゲーションのもと輪読をします。

 予習や前提知識も必要ありません。図象(ずしょう)と呼ぶ高橋が構成した“概念曼荼羅”を介し、お互いに声を出しながら輪読する事で解読力が自然とついていきます。

 2014年秋開講の『伊勢物語』からスタートした「サテライト輪読座」。 全6回にわたる講座を動画共有サイトで生中継いたします。各回の資料や課題共有はリアルの参加者と同じWEB上のラウンジで行い、記録映像と記録音声を期間中いつでもご拝聴いただけます。
 ぜひ、遠方の方や時間の調整が難しい方のご参加も、お待ちしております。


これまでの輪読座



バジラ高橋

高橋秀元

松岡正剛と共に工作舎を立ち上げ、オブジェマガジン『遊』を世に送り出してきたコアメンバーの一人。
日本の神々について独特の解読を進め、観念の技術をめぐり執筆を続ける一方、出版や日本文化・観光・都市の研究、地域振興や文化施設などのプランに携わる。
イシス編集学校で密教のヴァジラ(金剛杵)を冠した教室を開いたことから、「バジラ・タカハシ」が仇名になっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  輪読座・日本哲学シリーズ第四弾

  「日本華厳・宇佐八幡託宣集を読む」のご案内




いよいよ輪読座は「華厳の時間ですよ!!」

 輪読座では、2015年の10月に開筵した「聖徳太子・日本唯識を読む」から「万葉集:相聞・挽歌を読む」に続いて、2016年10月より「西田幾多郎を読む」を輪読し、2017年3月にはご参加くださった皆様に西田幾多郎の西欧哲学の西欧的思惟の乗り越えを実感していただきました。西田幾多郎の哲学を先行したのは、法性宗(華厳・天台・浄土・法華・禅)に貫かれた法性(存在や現象の本性=万有の本体・真如・実相・法界)に関する議論を根幹に、20世紀初頭におこった量子論・相対性理論・遺伝子的生命進化論・認識論などを組み込みつつ、西欧キリスト教が取り込んだギリシアのプラトンやアリストテレスなどの概念論を解放し、ベルグソンやフッサールが投げかけた近代西欧哲学の原点というべきデカルト・カントへの議論を丸抱えにしながら、新たな世界の再構築法を提示していたからでした。

 すなわち、法性宗の霊魂論(法性論、西欧の純粋精神論にあたる)は、西欧の純粋精神が絶対神が与えた不変の実在と考えているのに対して、法性宗では自ら変化すると考えていた。それは日本人なら誰でもが、意識的にせよ無意識的にせよ、未だに抱き続ける世界認識論の有効性を示していたといえましょう。ヘーゲルは『大論理学』において、西欧で初めて純粋精神が神の領域に至る昇華をとげるという、いわば「精神の進化」を提唱したのですが、それとて社会的条件、文化的条件などに疎外された純粋精神が、その疎外を拭い去って純粋精神そのものとなる過程を示したのであって、絶対神が与えた純粋精神そのものの不変性は堅持していたわけです。

 これに対して、西田幾多郎はヘーゲルを座右に置きながら、法性の絶対無に至る変動を認め、そこに「述語論理」を提唱し、最終的には絶対無からの世界の自発的な再構築に至る動的過程としての「絶対矛盾の自己同一」をヘーゲルの純粋精神への昇華を包み込みながら提唱したのでした。20世紀後半の戦後日本の知識人は西田幾多郎の提唱を理解して展開することなく、京都大学での日本哲学講座の存続を危ぶまれながら、その提起の将来は21世紀に持ち越されています。

 20世紀の華厳思想の解説は西欧哲学の蔓延や廃仏毀釈の影響などによる仏教界の思索・実践の衰退もあり、学術的には世界知とされた西欧の論理を基礎に説明されることが多く、小は大を兼ねずで、的を射た解説書はほとんど見当たらない。華厳思想を理解するには、西欧の絶対精神が静的モデルであるのに対して、いわばその動的モデルを求めていたということを主眼にアプローチしなくてはならないわけです。

 そこで、2017年4月より、輪読座にて西田幾多郎の思索の本源となった法性を最初に議論した「華厳思想」を取り上げることといたします。いよいよ、輪読座は「華厳の時間ですよ!!」というわけです。

 以下、いささか複雑で長い迂回になって申しわけないですが、「聖徳太子・日本唯識を読む」に参加されなかった皆様のためにも、その概略をふりかえり、資料に供しておきたく思います。下記の「続きを読む」、『華厳思想の発生と伝来』をお読みください。
 面倒に思われましたら、それらを無視して、参加の心構えだけでもお読みください。こちらも重要です。


◎輪読座への参加の心構え

1.予習禁止=輪読座は「無知」を尊びます。予習の多くが先行する意見・定義の再認であって、自由な発想をさまたげる。輪読座では人が読むのを聞いて思いつく自発的意見を重視し、教科書の文言や通説、既存の学説・解釈の受け売りや代弁を禁止する。

2.読めない状態の参加でよい=輪読座では配布されるテキストを声に出して読みまわします。そのとき、読み間違い、読めない文字の飛ばし読み、たどたどしい読み方などをとがめない。そのたいがいに重要性はない。人が読むのを聞き、自分が読んでいるうちに発声の呼吸・調子が分かって読めるようになってきます。読み手が読めないところを聞き手の読める人がフォローすることは許可する。

3.疑義に発言・応答する=知らないワード・人名・地名などは休憩にスマホでチェックすればよい。しかし、どうして?なぜ?が生じたら、それを提示しなくてはならない。それは既存の知識では解決できないことが多い。そのときは全員が自由に見解を発露してよい。輪読師が疑義を投げかけたら、思いつくままに答えなくてはならない。疑義や答えを誹謗してはならない。疑義や答えのフォローは許可する。

4.読みまわした内容の編集と発表=輪読座では、読む対象の時代状況、その内容のよってきたる所を重視し、それを輪読師が「図象」(ずしょう)で提供。「図象」では読む対象ならではの特殊な用語・術語の図示による解説も行い、内容把握の障害をできるかぎり除いて輪読をはじめる。その中間で読んだ内容を二人組で三環連結・三位一体・二軸四方などを組み合わせて図示し発表。参加者は必ず、これを実行しなくてはならない。

5.宿題が出る=人間は忘却の動物。読み終われば、次の瞬間、内容を忘れる。そこで輪読の終了後、その日に読んだ内容を読み返さないとできない宿題が出される。その答案は輪読師が毎回提供する「図象」の型を参照して作成。そのうちの2、3の答案を、次回の輪読の開始の前に発表していただき、前回の内容を思い出して次の輪読に入る。宿題を提出しないからといって論読座への出席は拒否されない。宿題の答えを出さなければ、読んだ内容を説明できなくなることが多いが、これは自業自得とする。


(続きを読む)

倭国に伝わった如来蔵思想

 如来蔵思想は東晋と交流した百済を経由し、継体天皇のころから倭国にもたらされて飛鳥仏教を形成しました。これは豪族の子孫が豪族になるというような人間の本性は生来決まっているとする神祇信仰に依拠する豪族連合体制と深く対立し、蘇我・物部戦争を引き起こした。その中から聖徳太子が現れて、蘇我政権における政治思想にまで一般化したわけです。いわば「如来蔵」を内包する人々を国民とする国家を目指した聖徳太子とそれを豪族の統制に用いようとする蘇我馬子の独裁政権志向と対立することになり、上宮王家の滅亡という悲劇に繋がった。

 飛鳥仏教の仏像を見れば、何重もの衣服を着込み、いかにも北方を経由した姿を示しています。それは如来蔵を自覚した人々が世界を安定させ、仏国土を形成しますという誓願を受け入れる姿を現していました。とくに「法興元丗一年(621)、歳(ほし)は辛巳に次(やど)る十二月、鬼前太后(かみさきのおほきさき:聖徳太子生母の穴穂部間人皇女)、崩(みまか)りたまふ。明年(622)正月二十二日、上宮法皇、病に枕し食に弗悆(こころよ)からず。王后(膳妃:かしわでのきさき)、また労疾(いたつき)て、並びに床に著きたまふ」に始まる銘文が刻まれた法隆寺の「釈迦三尊像」の釈迦も、まさに如来蔵思想を説き、それを受け入れた人々の誓願を承認する厳粛な姿を現しています。20世紀のつまらない学者は、これは穴穂部間人皇女の死に病に伏した上宮法皇とされた聖徳太子と膳妃の病魔からの救済を願って造像されたと言うのが一般的でした。21世紀には、これは如来蔵思想によって、聖徳太子と膳妃が釈迦への誓願を実践させてくださいとお願いして造立したと言わなくてはなりません。この飛鳥時代の仏教について、輪読座では「聖徳太子・日本唯識を読む」において、聖徳太子の「三経義疏」(『法華義疏』・『勝鬘経義疏』・『維摩経義疏』)のうちの『勝鬘経義疏』を輪読し、その内容を理解しました。

 聖徳太子は南北朝・隋でおこなわれた如来蔵思想の実践に疑義を呈し、たびたび「私はそうは思わない」と反論しています。大陸では仏教徒でなくては如来蔵を自覚できないとしていたのに対し、仏教徒でなくても如来蔵は働いていて、生死の問題を乗り越える段階に至って仏教が必要となるとしていました。これは倭人が大陸の仏教を無批判に受け入れたのではない証左でもある。いずれにしても、聖徳太子の時代の如来蔵思想は、大陸では隋の滅亡、倭国では蘇我氏滅亡とともに、全く異なる仏教の導入によって忘れ去られました。聖徳太子の「三経義疏」が大陸の南朝末期のごく短期間におこなわれた議論であったことを無視する“聖徳太子いなかった論”は誤謬でしかない。

4世紀におこったガンジス流域の唯識思想

 以上のようなインダス流域の如来蔵思想に対して、ガンジス・デカン高原のアーンドラ・グプタ朝ではインド六派哲学がおこり、そのヨーガ派(瑜伽派)の認識論をガンジス中流域にあらわれたマイトレーア(弥勒)が止揚し、中央アジアから来訪してその弟子となった部派仏教徒のアサンガ(無着)やヴァスヴァンドゥ(世親)が精緻な認識論に仕上げて、ヴィジュニャーナヴァーダ(瑜伽行唯識派)をおこしました。これは「究極の我」(霊魂)の実在を否定し、人間が捉える世界は人間の八識のシステムが捉えたものとしました。これを唯識論といいます。これは無着の後継者と世親の後継者の二派に分派しました。

 無着の後継者は認識システムの根底の阿頼耶識を実有とする有相唯識派、世親の後継者は阿頼耶識も縁起として空とする無相唯識派を形成しました。無相唯識派は、今のムンバイ方面に広がり、アジャンタやエローラ石窟の仏教美術の一翼を担っています。これは六世紀に西インドのパラマールタ(真諦)によって、東南アジアの扶南から南朝の梁に伝えられました。真諦は南海の人々の精霊信仰を見て、霊魂(仏教では仏性)を認めない無相唯識派の布教に苦難を感じたでしょう。そこで唯識論の八識に加えて、未知を既知にとりこんで世界認識を拡張・刷新する無垢で清浄な究極の意識としての第九識・阿摩羅識を立てたのです。これは梁・陳・隋に広まった摂論宗や地論宗などを形成し、南朝の梁に台頭してきた天台宗の「心王」ともされ、同時期に華北に広がった華厳宗にも影響しました。

 これに対して世親の弟子となった南インドのバラモン出身のディグナーガ(陳那)が認識内部に現れる形象(相)を実在とし、「宗・因・諭」の三段論法による唯識論理学を確立して有相唯識派を形成したのです。これは西欧伝統の「合」が出ない「正・反・合」の論理を誤謬とします。フェイクが横行する21世紀の論理学は唯識論理学の枠組みを基礎に転換しなくてはなりません。この有相唯識派はナーランダ大学に継承され、七世紀にインドを訪れた玄奘三蔵がナーランダ大学学長であったシーラバドラ(戒賢)から有相唯識派を継承し、唐にもたらしました。唐・新羅連盟と倭・百済連盟が戦った白村江の戦いの前夜、倭国の道昭が密航して長安の玄奘三蔵の許に至り、有相唯識派と禅の四祖・道信が興した東山法門の修行を体験しで帰国しました。

 道昭は白村江の戦い、続く壬申の乱に疲弊・混乱した倭国の社会にボランティア組織を形成して救済活動を展開し、その宗派は法相宗と呼ばれました。ですから、いわゆる白鳳仏は法相宗の仏像でした。それは八識を制御していわば健全体となった人間の姿を表現していました。法相宗で見るもの・聞くもの・感覚するものによって自己の姿が変容すると考えましたから、南アジア系の半裸の肉体を誇る白鳳仏は、それを見て感じることによって、自らが近づいていきたい人間の理想像でもあったわけです。

 あるいは万葉歌人のほとんどが有相唯識派の思想、唯識論理学を受け入れた人々であって、万葉の和歌に特徴的な「見れど飽かぬかも」などの詠嘆も、八識が自己の相を変容させ、仏に近づけるというような思想を背景に現れたといえましょう。以上のような議論は「聖徳太子・日本唯識を読む」において、空海の師でもあった法相宗の護命が残した『大乗法相研心章』を輪読することによって理解されました。

太宗時代の三論宗と玄奘三蔵がもたらした唯識有相派の哲学

 唐の李世民が長安宮廷の玄武門にクーデターを敢行して太宗に即位した5年後、聖徳太子没後の推古33年(625)、高句麗王は慧灌(えかん)という僧侶を倭国に派遣しました。慧灌は隋の煬帝の帰依を受けた三論宗の吉蔵の許に学びました。太宗は吉蔵を引き続き尊敬しましたが、新たな国教となるべき仏教を模索していました。そこに645年、前に述べた玄奘三蔵が帰国し、太宗は玄奘の唯識有相派を唐の国教としようとしたわけです。 三論とは龍樹の『中論』『十二門論』、その弟子の提婆の『百論』のことで、「諸法空」を唱え、言ってみれば、ヘーゲルが唱える「正と反」のような二項対立する現象・概念は相互依存し、相対的に成立する「仮」に過ぎず、そのどちらかを信じ、それに執着・傾斜すると誤謬に陥るとし、「中」にこそ真実を見出せるとしていました。これを「空・仮・中」という。

 これは、4世紀前半の五胡十六国時代に鳩摩羅什がもたらし、大陸の動乱の中で北朝・南朝から帰依されて泰山に住した僧朗らに受け継がれ、パルティアから渡来した吉蔵が三論宗として完成しました。その弟子の慧灌の来倭は、どのような国際政策に出るかが危ぶまれる唐の太宗が遊牧民部族の天可汗となり、それを背景に中華皇帝となろうとしている状況に対して、高句麗が倭国の連携を強めておきたいという思惑のもとに派遣された特使の役割を担っていたのです。

 こうして慧灌は倭国に留まり、蘇我馬子が飛鳥に建立した法興寺(後の元興寺)に入って、飛鳥仏教の仏陀となる心である如来蔵を実在とする如来蔵思想に対して、「一切皆空」を唱える三論宗を広めました。ところが、644年、巨大帝国となった唐の太宗は、その体制に参加を拒否する高句麗の攻撃をはじめたのです。その翌年の皇極天皇(宝皇女)4年(645)、新羅・百済・高句麗の三韓の進貢の使者が来倭し、蘇我入鹿は独裁体制を堅持しつつ、唐・三韓・倭国の協調外交を志向しました。これに対して、中大兄皇子と中臣鎌足は佐伯子麻呂や葛城稚犬養網田を伴い、三国の調の儀式にクーデター(乙巳の変)を敢行して蘇我入鹿を殺し、蘇我本流を根絶やしにして、孝徳天皇を擁立して難波に首都を移し、大化改新に挑みました。そこでは国際通貨の無文銀銭の質を安定させて交易を促進し、皇室の領地を中心に戸籍を設けて安定税収を確保して国力増強に邁進したのです。

 このころ、三論宗の慧灌は大僧正に任じられ、倭国の仏教を主導していました。こうした中で653年、孝徳天皇は遣唐使を派遣したのです。この遣唐使は唐の太宗が拒絶され、唐日の国交正常化は成らなかった。この遣唐使船に乗っていた道昭は密入国して長安の玄奘三蔵の弟子となった。この年、孝徳天皇の国力増強策に対し、国際変動を利して倭国の中央集権体制を画策する中大兄皇子の一党は難波宮を離れて飛鳥宮に戻り、654年に難波宮に孝徳天皇が亡くなると、宝皇女を重祚して斉明天皇として擁立したのです。

 果たして、647年、唐と対抗した新羅の善徳女王が親唐派の内乱に陣没し、真徳女王が立って親唐派が台頭しました。倭国にあって連携をはかっていた新羅王族の金春秋は唐に渡り、太宗に謁し唐羅同盟を結んだのです。649年には唐の太宗が没し、高宗と則天武后の時代となり、唐は高句麗に小規模の攻撃を継続して高句麗を消耗させる戦略に出た。こうした国際状況の変動の中で倭国と百済は連携を強め、白村江の戦いに向かっていったのです。その前夜、600年ころ、道昭は玄奘三蔵から新約仏典を授けられ、前述した唯識有相派の思想に基づく法相宗をもたらしました。

 白村江の戦いの後、天智天皇が大津宮に即位すると、慧灌の弟子の智蔵が唐に渡り、呉越の尼僧について三論学を習ったという。智蔵の父は、7世紀中ごろに呉から来倭した福亮でした。福亮は聖徳太子を尊崇し、聖徳太子が「法華経」を講義した岡本寺を開基している。あるいは、藤原鎌足が開基した山階寺(後の興福寺)で三論宗の立場から維摩会を催した。智蔵は持統天皇のときに、三論の要諦を書いた一巻を懐に帰国し、法隆寺に入って三論宗を広めはじめた。こうして、忘れられ没落した聖徳太子の寺院・聖所は三論宗の寺院として整備・復興されたわけです。こうした華厳前夜の状況も、「日本華厳・宇佐八幡託宣集を読む」においては再整理しながら進めたく思っています。

華厳思想の発生と伝来=仏性の自発的進化

 華厳思想の発生はインダス流域のクシャナ朝の崩壊と深く関わっていました。クシャナ朝は2世紀のカニシカ王時代に全盛期を迎え、ガンダーラの仏教遺跡が名高い。その仏教思想は如来蔵思想に基づいていました。しかし3世紀末には北方の遊牧騎馬民族、白匈奴などの進入に悩まされ、ササン朝ペルシアに征服されてしまった。

 ササン朝はそこに王族の「クシャーン・シャー」を派遣して統治し、その仏教文化を継承させました。この混乱の中で、さまざまな思想に分裂したガンダーラの仏教各派の普遍化・統合化が試みられはじめました。その中核は絶対不変の如来蔵(西欧的には純粋精神)にあったのですが、如来蔵は不変ではなく、自ら仏教的修養によって変化しながら仏陀が感知した世界像を現前し、それを現実のものとするという動的如来蔵の模索がはじまったのです。そこでは、如来蔵は十段階の自発的進化をとげるとされ、3世紀から4世紀にかけて、それに基づく支婁迦讖訳『仏説兜沙経』、支謙訳『仏説菩薩本業経』、竺法護訳『菩薩十住行道品』などが初期華厳の十段階の進化を「十住」、「十地」として示していました。 そのような模索はどこに始まったのか? ガンダーラを拠点に東方から移動してきた大月氏を受け入れ、クシャナ朝を成立させたのがギダーラ国でした。ギダーラはササン朝の支配を嫌い、北方のアフガニスタンに移動し、5世紀ころにはシルクロードの仲介貿易で栄える新生のギダーラ王国となり、いわゆるバーミアンの大仏を建造しています。それは最初の華厳思想の表現でした。その構造についても、輪読座で説明いたします。

 しかしバーミアンの大仏の思想をあらわすサンスクリット教典は残されていない。中国の南北朝の記録によれば、5世紀初頭、タリム盆地の交易に栄える都市国家ホータン(于闐)に支法領という漢人が訪れ。于闐の大伽藍に驚いて、その教義を尋ねたという。ホータンでは嶮しい山中に多くの大乗経典が秘蔵されていて、役人が守護し国外持ち出しを禁止していた。支法領はホータン王に懇願して「華厳経」を中国に伝えたいと懇請し、国王は「華厳経」前半分の三万六千偈の梵本を渡し、長安に持ち帰ったという。

 「華厳経」の全貌を華北に伝えたのは、釈迦が誕生したカピラヴァストゥ出身で、シャカ族の末裔というブッダバタラ(仏陀跋陀羅・覚賢:359~420)でした。ブッダバタラは17歳で出家し、カシミールに行って「華厳経」と出会った。そこで中国僧の智厳と出会い、五胡十六国の動乱を鎮める仏教が求められていることを知らされ、長安を目指しました。その途次、401年、後秦の姚興に迎えられて長安に赴くクマーラジーパ(鳩摩羅汁)に出会って同行し、その訳経作業を手伝いました。クマーラジーパの翻訳は「諸法空」に基づく龍樹の『中論』『十二門論』、その弟子の提婆の『百論』を背景にしていましたから、「動的な仏性の実在」を主張する「華厳経」の教義と対立したのです。輪読座では、こうした大仏ロード化したシルクロード、あるいは華厳の東漸にも光をあてたい。

六十華厳の翻訳と律宗の成立と大仏ロード

 華北に教勢を拡大した三論のクマーラジーパが死去すると、三論と華厳の対立は表面化し、クマーラジーパの弟子の道恒らからブッダバタラは排斥され、南朝の東晋に逃れて、菩薩・行者が行うとされる般舟三昧を行じると十方の仏が行者の前に立つのを見ると説く『般舟三昧経』に従って、阿弥陀の観相を修していた廬山の慧遠のもとに落ち着いた。ここにブッダバタラは、インド旅行した法顕がもたらした如来常住(如来は常に実在する)・一切衆生悉有仏性(すべての人に仏性がある)・常楽我浄(人はどんな状況でも楽で我は清浄)・一闡提成仏(前世に罪を犯して奴隷となっている人も成仏できる)を唱える『大般泥洹経:ないおんきょう』(大乗涅槃経)を法顕とともに翻訳しました。

 さらに法顕がもたらした大乗涅槃経の教義に基づく僧侶の戒律集で、律宗の基本となる『摩訶僧祇律』を翻訳したのです。その上で『大方広仏華厳経』(六十華厳)を翻訳しました。これは悟りを開いた釈迦が、その悟りの世界を十大弟子に語るという体裁をとり、その世界像に至る十段階の仏性の昇華を語り(十地品)、その世界を善哉童子がめぐる(入法界品)を加えるという編集構造になっています。その釈迦が示したのは、陽光である毘盧舎那仏であって、その智彗の光はすべての衆生を照らして衆生は光に満ち、同時に毘盧舎那仏の宇宙は衆生で満たされているという光景だったとする。これを「一即一切・一切即一」とし、「あらゆるものは無縁の関係(縁)によって成り立つ」として、これを法界縁起としたわけです。

 ここに華厳宗と律宗が両輪として働く体制が整えられ、師弟関係のみで継承されてきた他の仏教諸宗派に対して総合力を発揮しはじめました。この華厳体制は北のシルクロード、南海のシルクロードの交易都市、貿易商人に受け入れられ、交易都市の郊外には華厳の教主のマハー・ヴァイローチャナ(摩訶毘盧遮那)とそれを解説するシャカムニの大仏を中心に多くの石窟寺院が彫り刻まれた様相を示しています。その石窟寺院はさまざまな民族・言語の貿易商人の寄進によって造営され、かれらの居留地ともなった。

 このごろでは、バーミアンから西方に向かって大仏が伝わっていることも明らかになり、東方に向かっては、タリム盆地オアシス都市に点々と見られ、涼州石窟におよびました。5世紀に華北の大勢力となった鮮卑族拓跋氏の北魏王朝の第4代・文成帝が、それまでの仏教諸宗派の弾圧政策に代わって、新たに華厳を特殊な解釈のもとに取り入れ、5世紀後半をかけて、曇曜に「曇曜五窟」を造営させたのです。これを元型に北魏の主要拠点に天龍山・南北の響堂山など多くの石窟寺院が設けられた。

 北魏が華北を統一すると、首都を洛陽に移し、その郊外に龍門期(494~520)の「龍門石窟」が造営されました。そこにはガンダーラやグプタ朝の様式が用いられ、ギリシアなどの西方起源の意匠も多用されている。龍門期の石窟の石窟寺院の様式は北魏滅亡後の鮮卑系王朝に受け継がれ、北斉から隋にかけての「薬方洞」などがある。隋では華厳は後退したものの、初唐(656~669)に再び華厳の石窟寺院の、「敬善寺洞」が完成し、その後、「恵簡洞」や「万仏洞」が完成している。

   

朝の華厳と玄奘三蔵、唐の国教の経典となった八十華厳

 5世紀から7世紀にかけて、華厳の石窟寺院が広域に建造されたわけですが、その間、『大方広仏華厳経』(六十華厳)を所依の教典とし、『摩訶僧祇律』によって僧侶の身分を保証しました。華厳宗は、その間、三論宗の空・仮・中の理論や摂論宗 (無相唯識派)の第九識の理論ばかりでなく、道教の認識論的自然観や儒教の社会道徳論も取り込み、その仏性の進化論も変容していったのです。7世紀前半の杜順が中華の華厳思想を集大成していわゆる漢字の華厳宗を形成しました、598年に即位した唐の太宗は三蔵法師を迎えて唯識有相派を受け入れ、法相宗を国教としようとしたのですが、その論理学で中華世界と遊牧世界を治めきれなかった。

 太宗亡き後、7世紀後半には高宗と武后のもとで智儼が華厳思想に唯識学を統合し、華厳経の解釈学を確立しました。これに基づいて「奉先寺大仏」が築かれた。「奉先寺大仏」は、672年、武后が脂粉銭20,000貫を投じ、華北浄土教の善導が民衆に勧進し、造営にあたって、675に完成しました。さらに、679年、勅を奉じて大像龕の南に大奉先寺を置き、翌年正月に、高宗が寺額を書したのです。

 683年、高宗が没すると、中宗が立ちましたが、皇后の則天武后は中宗を廃位し、睿宗を新皇帝に擁立して政権を掌握しました。これに反対する反乱が次々におこり、動乱状態となった。則天武后は反乱軍を制圧していった。  

 このとき、則天武后は中国上代の理想の世とされる周朝を再現すると宣言しました。5世紀前半に曇無讖(どんむせん)が翻訳した、すべての人に仏性が備わると説いた『大方等無想大雲経』に「浄光天女が王位をつぐ」という一節があるのを根拠に、「太后は弥勒仏の下生なり、まさに唐に代わって帝位に即くべし」という讖文(天から降ってきた神秘的な文)をばらまいて民心を掌握し、唐の国号を改めて、周としたのです。則天武后の周では首都の長安・洛陽に大雲経寺を築き、『大方等無想大雲経』を頒布された大雲経寺を全国諸州にそれぞれ一寺設けて、これを講釈させた。

 女帝となった則天武后は、今で言ったら性差別が残る『大方広仏華厳経』(六十華厳)に不足を感じていました。そこに新たな華厳経がホータン(于闐)に秘蔵されているという情報が入り、使者を派遣して梵本を求めさせ、訳経者も捜させて、シクシャーナンダ(実叉難陀:じっしゃなんだ)が洛陽に入って訳経を開始し、699年に新たな『大方広仏華厳経』(八十華厳)が訳出されたのです。こことき、則天武后の庇護を受けて華厳教学を宣揚し、八十華厳を所依の教典に華厳教学を再編したのが法蔵で、これが唐の華厳思想の根幹となったわけです。

 六十華厳と八十華厳は、その巻数が異なり、六十華厳が「七処八会」で三十四品であるのに対し、八十華厳は「七処九会」で三十九品です。その内容は、輪読座に参加されれば、明らかにイメージできるようになりますが、万象が互いに因となり縁となって立ち現れる法界縁起を明かし、万法は自己の一心の作用のみによって現象が出現しているということにおいては変わりない。けれども、六十華厳が翻訳された東晋が、華北に乱立した遊牧民族国家に対して中華思想を守ろうとしていたこともあって、中華思想からすれば露骨と思われるインド的な性的表現などが修正され、サンスクリットの原語が漢字の音写になっている。八十華厳では、さまざまな性的表現なども意訳されているわけです。

 輪読座では、このような学者が取り立てる表現の相違より、むしろ華厳経の「処」(場面)と「会」(出来事)という編集構造に注目して、六十華厳と八十華厳の物語構造を比較してみたく思います。

統一新羅の華厳宗と華厳経の編集を解く

 7世紀の新羅は百済や倭国で盛んになった三論宗や法相宗に対して、華厳宗を求めました。610年、元暁と義湘は新羅最初の寺と伝えられる慶州の興輪寺に六十華厳によって華厳思想を説いていた法蔵に学んで、その疑問点を解消しようと、610年に渡唐しようとしたのですが、高句麗が通行を許さなかった。さらに661年、二人は渡唐しようとしました。元暁は唐に向かう苦難の道に飢えて容器のようなものに溜まった水を飲んだという。それが骸骨に溜まった水だったと知って、甘く飲めた水が骸骨に溜まった水だと思ったら、吐き気を催したのは、華厳思想の現象はすべて心の作用によって起るということの証左であると悟って、華厳経に抱いた疑問は解消したとして帰国したというのです。

 元暁は実体験や実証によって「華厳経」を解釈し多くの華厳哲学書を著しました。統一新羅2代文武王が韓半島から唐軍を撤退させて、統一新羅を樹立したころ、元暁は「小姓居士」と名を変えて、芸人にもらった楽器の瓠に「無碍」と名付け、歌を作って瓠を打ち、華厳思想を庶民に普及したのです。この元暁の弟子に日本の新羅学生として留学していた審祥がいて、これが日本に華厳思想を伝え、聖武天皇の東大寺建立に至りました。

 一方、義湘は無事に唐に渡って、華厳の注釈学を完成し、華厳思想に唯識学を融合した智儼に学んで、文武王16年(676)に海路で帰国しました。義湘は文武王の勅命をうけて新羅における華厳宗の根本道場となる浮石寺を建立し、新羅の各州に海印寺・梵漁寺・華厳寺・玉泉寺などの華厳十刹を設けて、国家を支える新羅華厳宗を樹立しました。義湘系が華厳教学を中心とするものであるのに対し,元暁系は『大乗起信論』に基礎を置いた「和諍」という考え方を中心とし,あらゆる教学を会通させていくものであると考えられています。

日本華厳の編集と宇佐八幡の参入

 日本の華厳宗の根本道場といえば、奈良の東大寺です。東大寺建立を主導したのは聖武天皇でした。その華厳思想を新羅から伝えたのが新羅学生の審祥でした。審祥は新羅の元暁の弟子で、新羅の大衆化した華厳思想を学んで入唐し、唐の国教となった「八十華厳」を所依の経典とする法蔵の華厳思想を学んで帰国しました。

 どうも新羅の元暁と義湘の華厳思想に相違があり、さらに唐の華厳思想も異なっていて、日本ではそれらの華厳思想を編集し、日本華厳思想になったようです。これも輪読座では、いろいろ推理してみたい。そこに、法相宗から良弁が加わり、同じく法相宗の行基が東大寺造営を引き受けた。このあたりの事情も探ってみたい。

 この聖武天皇の東大寺建立を支持した“神”があって、それが宇佐(大分県)の八幡神でした。それは神仏分離以降の天皇の祖先の一人としての応神天皇を祀る神社ではなく、僧形八幡という坊さん(一時期、応神天皇にもなったが、その後、釈迦菩薩の精神段階に達した僧侶)の姿の神を祀った神社で、託宣する神でもあった。天平勝宝元年(749)に八幡神と宇佐宮の女禰宜・大神杜女(おおがのもりめ)が紫の輿に乗って東大寺の転害門(てがいもん)をくぐり、できあがったばかりの奈良の大仏に拝謁しています。これは、一体、どういうことなのか。そこには華厳思想の日本化という問題がひそんでいるわけです。もっといえば、「神道」という概念の発生、あるいは「神道の本来」も、そこにひそんでいるといえなくない。

 そこで、2017年4月より開始する輪読座は『日本華厳・宇佐八幡託宣集を読む』とし、参加くださる皆様とご一緒に、日本華厳を前3回、宇佐八幡託宣集を後3回、計6回で、読み切りたく思います。

 日本の華厳を知るための、読みやすい古典となると、奈良時代のものは完本がなく、華厳が復興された鎌倉時代の華厳解説書となります。でも、少し奈良時代の古典の一部も読みたい。というわけで、六回の輪読の配分は、今少し、お待ちください。いずれにせよ、「華厳三日」、「宇佐神道三日」の濃密な時間を過ごしましょう。


 



 以上、華厳と神道の本質を理解したい皆様は、もはや2度とチャンスがない輪読に、振るってご参加くださいませ。遠方の方々はサテライトで参加される方が増えています。それでは、4月にお会いいたしましょう。




輪読座・参加者の声


輪読座でなければまず一人で読むことがない書籍ですよね。
図像含め横へ広がる話がとても刺激的です。
手の付けにくい本でもみんなで読むと読めてしまう。
これは予想以上に面白く続けたいです。
図像ワークもチームでやるので、コツが少しずつわかるようになり、理解が進みました(教えてもらえます)。
読みを深め、内容をイメージすることが、この場に参加しなければ絶対できなかったと思います。

募集要項

講座名 輪読座
 日本哲学シリーズ第四弾「日本華厳・宇佐八幡託宣集」を読む
日時  2017年 4月30日(日)13:00~18:00
 2017年 5月28日(日)13:00~18:00
 2017年 6月25日(日)13:00~18:00
 2017年 7月30日(日)13:00~18:00
 2017年 8月27日(日)13:00~18:00
 2017年 9月24日(日)13:00~18:00
    (終了後、修了証書授与・懇親会を予定)
場所 編集工学研究所 世田谷区赤堤2-15-3
1Fブックサロンスペース「本楼」
定員

30名 ※どなたでも、お申し込みいただけます。

    定員になり次第、締め切らせていただきます。

申込

◎リアル講座:6回分 税込価格 54,000円(本体価格 50,000円)
     ※クレジットカードがご利用になれます。(分割払い可能)
     ※記録映像データ、資料などは欠席された場合、お渡しいたします。

申込み

 

◎サテライト講座:6回分 税込価格 32,400円(本体価格 30,000円)
         
※クレジットカードがご利用になれます。(分割払い可能)

申込み

お問い合わせ先 03-5301-2213(直通)
front_es@eel.co.jp
受付時間 AM10:00~PM6:00

[コース] ISIS花伝所本腰祭 │ 輪読座 │



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