■麻野由佳
配信されたものを読んだ時、校長の愛に包まれた。プリントアウトした文巻を抱きながら眠った。 書道でも華道でも茶道でも、「道」と名のつくどんな世界でもそうだけれど、終わりの時は始まりの時である。最後になって始めに戻る。そう。新たなスタートなのである。 「編集道」はまだまだ続く。
■倉部健治
本棚の正面には『フラジャイル』。その左右に『情報の歴史』と『情報の歴史を読む』。その周りに『空海の夢』『外は、良寛』『山水思想』『オデッセイ』、『日本数寄』『日本流』を配し、手元には『知の編集術』『知の編集工学』を置きました。左側面には【文巻】です。壮観です。
■塩田克博
十二週間の格別の離から離れがたくも、いま、2.26の恋厥を震える心に刻み、校長をはじめ第二季の離の仲間の蓮條を痺れる胸に絡ませ、この離を飛び立とう。
■海口平太郎
『情報の歴史』を綴じ代がほころびるほど開閉しました。ことある毎に開くという習慣になりました。歴史を学ぶことの本当の醍醐味を知らされました。そして『情報の歴史』を編集した日々は、さぞかし壮絶だったのだろうという思いにもいたります。
■梅津明子
一季が終わった時、「これだけでは終われない」という思いがあった。「私はもっとやれるはず!」。だが二季をやっているうちに、そんなことはどうでもよくなった。私の中で、主語が変わった。「知」というものの大きさ深さ広さ尊さ、その母なる海で泳げることの方が、よっぽど幸せなのだ。
■オカムラナヲエ
蓮條院という場はみずみずしい「気分」に満ちていた。場にたちあがる、気配、たたずまい、そして気分が、ネットワークの上にこんなに豊かにあらわれるとは。この「場の気分」にひたるとなんともいえずのびのびした。 「母なる液性環境」は生理的な報酬ですらあった。きっとこれが人間というメディアの性質なのだ。
■宮坂千穂
個と類をあわせ、あたらしいフレームをおこし、気持ちのよい細胞コミュニケションを行うこと。生涯の想いを貫くということ。それは、荘子が教えてくれた発想でもありました。「離」で最初に開眼したのが荘子であり、最後の時空で再び戻ったのが荘子でした。胡蝶の夢のように、鳥のように、校長の背を追いかけつつ、空に飛翔していこうと思っています。
■松浦真也
一方的に世の中から押し付けられる「区切り」から自由になること。周囲からのフィードバックを入れるスペースを設け、自分の引いた「区切り」を行ったり来たりできるようになること。私は、少しずつ解き放たれている。色々な呪縛から自由になり、今ここに戻ってきた。武器も携えて・・・。大海原へ漕ぎ出す準備が出来た。
■奥野博
「途中からの出発者」であるわたしは、「途中」を構造としてしっかりつかんでおきたい。「途中」こそわれらの分母だと思うからです。そして「今ここ」という途中、途中にあるいろんなモノゴトを解体してみるというのがリバースエンジニアリング。そこへ編集方法を注ぎ込んでいく。
■日高裕子
「離」の道のりは、ある面で「自分」を追い求める道のりであった。幼心を振り返り、自分のテプポを自覚する。しかし、道のりが進むにつれ、主語を自分にするのはつまらないとも思えてきた。我々は宇宙の、生物の、人類の歴史の先っぽで、次に続く歴史をつないでいる存在なのである。
■高野甲子郎
「自己」という概念が、他者を含む存在へと広がっていく。 常に何かに内属し、あるいは何かの外包者になっている。そして、境を接して同じような内属者や、それらをつつむ外包者とコミュニケーションしながら自己組織化をしている。 「情報はひとりでいられない」。そこには「たくさんの私」がいるのです。
■伊藤真由美
「文巻」は生きるうえで使わなくてはもったいない。 生身の生活に持ち込んで、使い込まなくては。 使い込んで、自由に使いこなせるようになったら、これは私の最大の「武器」になるのでしょう。しかもそれはきっと、「墨守」にこそふさわしい、切実を応援する、静かなる武器になるのでしょう。
■曽根藤和
僕たちが生まれる前から世界はあって、僕たちが死んだ後も世界はある。僕たちは毎朝生まれて、毎夜死ぬ。だけど書かれた書物は、受け継がれる限り永遠だ。書物を書けば僕の世界は死ぬことなく受け継がれていく。書物は死という制限も超えていく。書物によって僕たちの命が自由になる。
■小坂剛
テオリア(理論)は花鳥風月の概念の成り立ちを知ること、そしてプラクシス(実践)は未知なる何かを感じようとすること、 ポイエーシス(制作)はそのプロセスやターゲットを表現すること。辻に行って耳を澄まそう。そこは、いろいろのカミやモノが入ってきて吹きだまりであり、そこからなにもかもがはじまる。世界木を探し、大地の裂け目を探そう。そして景気を探し、名所に盛られている景気は何かを考えよう。 |