「退院」の認定条件は、規定の課題を全番回答することに加え、卒業論文=「離論」を提出すること。もちろん校長・別当・総匠の内容審査もある。第二季は「蓮條院」「風鏡院」あわせて27人の離学衆が晴れて退院を果たした。
退院式では、壇上のスクリーンにそれぞれの「離論」の一節が映し出され、松岡校長からそれぞれの達成感や新たな決意表明を祝福する握手と抱擁とともに、退院認定証が手渡された。





■麻野由佳
配信されたものを読んだ時、校長の愛に包まれた。プリントアウトした文巻を抱きながら眠った。 書道でも華道でも茶道でも、「道」と名のつくどんな世界でもそうだけれど、終わりの時は始まりの時である。最後になって始めに戻る。そう。新たなスタートなのである。 「編集道」はまだまだ続く。

■倉部健治
本棚の正面には『フラジャイル』。その左右に『情報の歴史』と『情報の歴史を読む』。その周りに『空海の夢』『外は、良寛』『山水思想』『オデッセイ』、『日本数寄』『日本流』を配し、手元には『知の編集術』『知の編集工学』を置きました。左側面には【文巻】です。壮観です。

■塩田克博
十二週間の格別の離から離れがたくも、いま、2.26の恋厥を震える心に刻み、校長をはじめ第二季の離の仲間の蓮條を痺れる胸に絡ませ、この離を飛び立とう。

■海口平太郎
『情報の歴史』を綴じ代がほころびるほど開閉しました。ことある毎に開くという習慣になりました。歴史を学ぶことの本当の醍醐味を知らされました。そして『情報の歴史』を編集した日々は、さぞかし壮絶だったのだろうという思いにもいたります。

■梅津明子
一季が終わった時、「これだけでは終われない」という思いがあった。「私はもっとやれるはず!」。だが二季をやっているうちに、そんなことはどうでもよくなった。私の中で、主語が変わった。「知」というものの大きさ深さ広さ尊さ、その母なる海で泳げることの方が、よっぽど幸せなのだ。

■オカムラナヲエ
蓮條院という場はみずみずしい「気分」に満ちていた。場にたちあがる、気配、たたずまい、そして気分が、ネットワークの上にこんなに豊かにあらわれるとは。この「場の気分」にひたるとなんともいえずのびのびした。 「母なる液性環境」は生理的な報酬ですらあった。きっとこれが人間というメディアの性質なのだ。

■宮坂千穂
個と類をあわせ、あたらしいフレームをおこし、気持ちのよい細胞コミュニケションを行うこと。生涯の想いを貫くということ。それは、荘子が教えてくれた発想でもありました。「離」で最初に開眼したのが荘子であり、最後の時空で再び戻ったのが荘子でした。胡蝶の夢のように、鳥のように、校長の背を追いかけつつ、空に飛翔していこうと思っています。

■松浦真也
一方的に世の中から押し付けられる「区切り」から自由になること。周囲からのフィードバックを入れるスペースを設け、自分の引いた「区切り」を行ったり来たりできるようになること。私は、少しずつ解き放たれている。色々な呪縛から自由になり、今ここに戻ってきた。武器も携えて・・・。大海原へ漕ぎ出す準備が出来た。

■奥野博
「途中からの出発者」であるわたしは、「途中」を構造としてしっかりつかんでおきたい。「途中」こそわれらの分母だと思うからです。そして「今ここ」という途中、途中にあるいろんなモノゴトを解体してみるというのがリバースエンジニアリング。そこへ編集方法を注ぎ込んでいく。

■日高裕子
「離」の道のりは、ある面で「自分」を追い求める道のりであった。幼心を振り返り、自分のテプポを自覚する。しかし、道のりが進むにつれ、主語を自分にするのはつまらないとも思えてきた。我々は宇宙の、生物の、人類の歴史の先っぽで、次に続く歴史をつないでいる存在なのである。

■高野甲子郎
「自己」という概念が、他者を含む存在へと広がっていく。  常に何かに内属し、あるいは何かの外包者になっている。そして、境を接して同じような内属者や、それらをつつむ外包者とコミュニケーションしながら自己組織化をしている。 「情報はひとりでいられない」。そこには「たくさんの私」がいるのです。

■伊藤真由美
「文巻」は生きるうえで使わなくてはもったいない。 生身の生活に持ち込んで、使い込まなくては。 使い込んで、自由に使いこなせるようになったら、これは私の最大の「武器」になるのでしょう。しかもそれはきっと、「墨守」にこそふさわしい、切実を応援する、静かなる武器になるのでしょう。

■曽根藤和
僕たちが生まれる前から世界はあって、僕たちが死んだ後も世界はある。僕たちは毎朝生まれて、毎夜死ぬ。だけど書かれた書物は、受け継がれる限り永遠だ。書物を書けば僕の世界は死ぬことなく受け継がれていく。書物は死という制限も超えていく。書物によって僕たちの命が自由になる。

■小坂剛
テオリア(理論)は花鳥風月の概念の成り立ちを知ること、そしてプラクシス(実践)は未知なる何かを感じようとすること、 ポイエーシス(制作)はそのプロセスやターゲットを表現すること。辻に行って耳を澄まそう。そこは、いろいろのカミやモノが入ってきて吹きだまりであり、そこからなにもかもがはじまる。世界木を探し、大地の裂け目を探そう。そして景気を探し、名所に盛られている景気は何かを考えよう。







■三上隆太郎
私からの自由、仮設への自由。われわれは連続しているようで、決して連続していません。非連続です。その隙間に「ここ」や「むこう」がやってくる・でてくるのです。到来し、飛躍します。まるで神を待つ場所、形代のようなブラックボックスです。

■赤羽卓美
ゲーム開発とは世界を記述することにほかならない。編集的世界観はすこぶるゲーム開発と相性がよいように思う。これまでにデザインしてきたメタゲームをさらに越えて、環境を含めて相転移を起こすような編集的世界観を形成するのが、 今のところの野望なのである。

■米川青馬
「自分の中に、子供が生まれた」と、僕は感じました。 「これが生まれ変わるということ」なんだな、と思いました。この生まれ変わりは、過去の記憶を引きはがすための痛みを伴わず、新しい自分を無理矢理に構築するようなこともせず、今までの自分を保ちながら、極めてスムーズに起こりました。でもおそらく、これこそが正しい生まれ変わり方なのだと、今では思っています。

■猪狩みき
一冊の本を読むことが他の多くのものとどれだけつながっているかを意識しながら読むこと。「シナジェティック・リーディング」をやってみること。自分を欺かずに読むこと。そして、編集の基本は言葉の編集。言葉を使って生きていること、生きていくことについて、自分なりに切り込んで考えていきたい。

■坪井美香
身体の内側は知で溢れさせたい。でも、すべて呑み込んで、表にはなるべく何でもないかのような身体を晒したいとも思うのです。単なる「無」ではなく、すべての「有」を含んだ「無」。モノやコトの合間合間の「せぬひま」を心で埋めつくす。そんな身体が欲しい・・・。

■丸山シズ枝
手術を機に一時も早く、この世界のシステムや読み方を学びたいという思いが募り、離の受講を決めました。稽古の間は無我夢中でしたが、卒門した今、さまざまな書物に触れる度に、自分の中に知の重要な道筋、高速道路のような道筋が出来たのだと感じ、驚いています。

■田中俊明
一個の自分の境界線などやすやすと乗り越えて共同知が行き来するうち、「個」や「私」や「自分」の境界など実にあいまいなものではないかという気がしてきた。ここから「世界知」の扉が開くのだろうか。正統と異端が入り混じり、多様な言語が雑然と飛び交っていたに違いないアレクサンドリアや長安から世界知が立ち上がってきた光景は、こんな感じだったのだろうか。

■志村呂子
「うつろひ」の物語を、いつか編まねばならない。「間(あわい)」 に身をおいて、ウツとウツツを行き交い、見る。ときには空に裂け目を入れることも必要だろう。でも、“負の性“ への誇りだけは捨てることはない。今までずっと負を想いつつも、どこかで忌避し、抱いてきた罪悪感も、そろそろ風に放していいのかもしれない。

■川島陽子
存在の想定をするためには「場所」が求められる。場所ごと編集して再現したものが自分の言葉になり、存在になる。場所のない言葉は、どこかを偽った言葉だ。そのことに気づいた今、これまで通り言葉を偽り続けることはできない。場所の記憶と思考の記憶をつなげることが、私にとっての負の転換点となるのだ。

■小林千穂子
知識は自分の中からは生まれない。向こうからやってくるものだ。この身の軽さ。暗く重苦しい湿った土の中にあった種から、地上に芽を出した、という感じだ。いつか花が咲くといい。そして、吹く風に散り、いくつもの境界を越えて流れていってみたい。

■森由佳
私にとって「離」とは「未」であった。しかし、確かに、「未央」はてることがなく、「未了」いまだ終わらぬ。「未曾」今まで一度もないものであり、「未明」夜明け前の、「未来」であった。



■内山淳一
「離」の3ヵ月を通じて得たのは、身体感覚としての「勇気」だった。気力を振り絞るとか、根性といった浪花節ではない。知らない知に踏み込む。思い切って断言してみる。自信がなくても発表する。スピード優先で言語化する。分からない部分をXと置いたままカテゴリーやインスタンスを動かしてみる。それは、体験した人しか身に付きようがない、実践的な勇気であると思います。

 

■第二季「世界読書奥義伝」27人の雄姿

■第二季「世界読書奥義伝」退院認定者発表


■第二季「世界読書奥義伝」特別賞受賞者発表

■第二季「世界読書奥義伝」典離認定者発表