
◇白木賢太郎
同時に読む、音読する、ギアチェンジする、 そこにトピカがあり、コンディションがある。著者語りを自己語りで補い、著者とまじりながら 掩巻する、マッピングする。 それを慎独し、逆向きに問いを作ってみる。 自分の頭で歴史的現在を理解し、本来を考える。
◇小濱有紀子
私にとって、耽るだけのものであった「書物」は、 像を結ぶための文巻という「言葉」を通じて、 世界と戦うための知の武器となった。
私は自由である。書物を持ち、図書街へ出よう。
◇福田徹
「自分」とは場の[抜き型]である。稽古をしていた福田徹は、回答ペースや応答速度で時間を刻む人であり、締め切りや本気などの与えられたルールに順応できる人であり、計算機や工学の設問を引き受ける人であり、表沙汰で握手や評価を示してもらえるような人でした。 全て、自立孤立した特性ではなく、耽像院に集ったブレインとの相対的な関係における人格です。耽像院の[部分]としての福田徹という人格でいたことを誇らしく思います。
◇中西和彦
日常の言語と内的言語(発話)のずれを感じつつ過ごして来た自分を冷静に振り返ることができた。今、言葉はしっかりと見え、テクストの中の発話が聴こえ、人の愛を感じています。
◇矢野敏雄
書き手と読み手とがキソイ、アワセ、カサネをし、 書き手になった後に、すぐ読み手になる。書かれてある事をなるほどと思う。また、自分の想いを書物に書き込む。 これが、世界読書奥義の秘伝中の秘伝だ。
◇岡本尚
[離]を志望した理由に「瀉瓶」を挙げました。日本で生きていながら日本のことを何もわかっていない、もっと知りたい、そして子孫に伝えていく使命があると考え、[離]に水を求めたのです。いただいた水を私が瀉瓶する番になりました。
◇加藤之康
一見バラバラに見えるある二つ、あるいは複数が連動して動いていくと、そこに新しい知が生まれ、文化が創造される。世界読書の「方法」という知を一気に加速させてくれた「バロック」。この捉え方に出会った瞬間、恋をしてしまったのです。
◇景山和浩
コトバは人間の生き方をつくりだす。 これほど1つのことに集中し熱くなりそしてヘコまされたことは、これまでなかった。分かったなどと安易に口に出すことはもちろんできない。これから一生をかけて、「青い鳥」を探す冒険を続けるのだと思う。
◇菊池かな
ただただ校長と宇宙に満ちる縁起に感謝したいと思う。「文巻」に溢れる校長の学衆への愛は永遠だ。「文巻」を紐解くたびに刻まれた永遠の愛に触れる幸福を噛み締めたい。
◇松下久美子
粋(いき)と粋(すい)の間。この二つの言葉の中に「まっとうさ」や「潔さ」を感じます。他に媚びないといったらいいのだろうか。自分というものを知り、わきまえ、それが人への接し方にも表れるような。あの表沙汰の日、私は校長はじめ火元組の方々にこの「粋」を感じたのでした。なんとも清々しい心地よさと、凛とした心意気に出会えたのです。
◇米山拓矢
言葉に入って、言葉を離れるためのパサージュ。それが私の【五季離】でした。言葉を離れて見えたのは、「言葉」と「言葉」の「あいだ」でした。それは、「人の見方ごと」を入れることができる「アナロジーによる写し」の可能性です。
◇大石大蔵
[離]とは、生き方のことである。いくつかの季節をまたぎ、たびたび足元をすくわれるなかで、ようやくそのことに気がついた。宇宙的礼節が、ある時にだけ発令されるなどということがないように、[離]は、いや[離]こそは、「私」という仮設的な自己を含んだ経験できるすべての事象が、たがいに延長しあう相依関係にあることをカタルトシメスする時空でありつづける。
◇山口桃志
リバース・エンジニアリングなふるまいで情報を受け止めていくのが「日本という方法」ではないか。 あたかも「答え」からたくさんの「問い」をさがすように。
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