■日玉浩史(万酔院)

「知シブキ乱舞の超冒険へ」

 「離」は知の「虎の穴」だ、という噂は伊達ではありませんでした。「離」が知シブキ乱舞するジャングルならば、「文巻」はさしずめ世界読書の密林に分け入るための奥義の書。ここにはさらに、この文巻自体が世界読書の鋳型であり、負の密林でもあるという壮大な矛盾もあります。そこに仄めく辻褄の極薄に立ち続けながらそこを離れよという禅問答のようなセイゴオ存在学が突きつけられる稽古の千本ノック。この疾風怒濤、縦横無尽の「直伝」の果てに、辿り着くのはアタラクシアの自由偏倚か、捨心之所執の反観合一か、はたまた究竟涅槃の融通無碍か…。
 この格別の「離」は編集魂に火を点けます。いや、燃え上がらせる、というべきか。「火元」からのこの火種は一生ものの恋心。是非この機会逃すべからず。なによりもまず、ここでこそ「守」「破」がどれほど恐るべき冒険であったのかが明らかになるでしょう。そして「虎の穴」を通って情報の密林へ向かう「超冒険」がここから、始まります。
■中村正敏(放恋院)

 「離」の後で、世界は変わりました。いや、世界が変わったのではなく、私の中にあった「方法」が変わりました。世界を捉えるモノサシは遥か彼方に伸び、その目盛りは限りなく微分され、どんな小さな動きも捉えていく。精神も肉体も、全身が痺れるほどの大量の課題にさらされながら、そのときの時間はなんとゆったりと、おおらかに流れていたことでしょう。空を流れる雲、頬を撫でる風ひとつに、コトダマを、歴史を、重力を、宇宙を感じるなんて。
 宇宙創世から150億年、地球形成から45億年、生命誕生から40億年、二足歩行を始めて150万年、人間が記録するようになって1万年、近代が始まって200年。その間に蓄積され編集されたモノとコトバが、離を終えた私の前で始終躍動しています。そして何より、それを読み解く「方法」の原型が幼い私の記憶にあり、また、過去に現在に生きる多くの仲間とともにある、という驚きと喜びは、今の「私」を支える心柱です。
 「方法が主題を包摂する」。校長のこの短い言葉こそをみなさんとも共有したい。そこに秘められた無限の時空間をみなさんとともに、ぜひ旅したいと思います。
■成澤浩一(万酔院)

 世界を埋め尽くす縦割りの壁がものの見事に打ち砕かれていく。「そういうものだ」と聞くたびに感じていた違和感の正体が次第に明らかにされていく。日常の中でふと立ち上がる些細なイメージたちが連関し輪郭を持ち始める。思わぬところに抜け穴と落とし穴があったが、決して行き止まりにはならなかった。奥に進めばまた扉が開き、未詳の霧に覆われた時空を劈く光線にしがみつく。あるときは巨大な建造物が視界を覆い、あるときは懐かしい原郷の匂いが立ちこめ、あるときは重力という制限に驚愕しつつも転機する術を知り、またあるときは深い悲しみの中に消え入りそうな誰かの夢を見た。夜を疾走するコレクティブ・ブレインの香ばしい創発の渦の中で、窒息しながら得たもの。それは思いもつかない新たな「型」であり、「たくさんの私」だった。
 今再び、熱死へと向かう娑婆に出た。辺境の荒野にぽつりと置かれた世界知の末席。ここから見る光景は確かに違っている。

 「世界読書奥義伝」、挑むべし。
■野嶋真帆(放恋院)

 たとえば今、離の渦中を思い出してみる。離を通り抜けたここからのスコープで、文巻に接したあそこでの断片を捉え直す。するとあれこれと新たな「読み」が起きあがる。
 あの時なりに手がかりを揃えてやっつけた「問い」の数々。あれって結局こういうことかもしれない。だとすると、こうとも言える。その反対はなんだろう。そこから出たらどう見えて、その意味するところは何だろう……。そう、離の体験は、いつだって初めての読み物のように再起する。
 通過した場面を読み直しその意味を問い直す。「読み」で「読み」ができていく。思えばヒトは前しか見えない歩行を始めて以来、そうやってセカイを読書してきたのだ。離は、そんな根源的で身体的な読書を再生させる仕掛けに違いない。永遠の書物を手に入れたようで、なんだか得した気分だ。
■大音美弥子(放恋院)

「巨大なうちわに似てるよね」象の耳を撫でた人は言いました。
「いやいや、大蛇みたいだよ」長い長い鼻を撫でた人が言いました。

ね。ここに連ねてあることばなんて、ひとつもアテにはできないんだ。すべては、あなたが自分の知覚と感覚だけを杖に、4ヵ月の闇を歩き通す体験にかかってるんだから。

そこにないもののことなら、少しは言える。安心と停滞と目眩ましの賛美歌。うたた寝と惰眠と狸寝入り。主体性と揶揄、責任と強制。

そして薄暮の中から、壮麗な迷路が徐々に姿を現す。巨大な問いの前で途方に暮れ、攀じ登る爪さえ手放してしまった、惨めで愚かで卑小な自分さえ、もう一度歩きはじめ、走り出さずにいられぬ景色!

どことだれに焦点を合わせれば、次の場所へ跳べるか。
いつ(何時と稜威)ともし(Hi!とif?)の結び目から、何のために闘うか。

それらを語り合う共通言語だけが課題だとしたら、徒労な気が、しますか? 
頸を毎日伸ばしていたら、いつかはキリンになれる日がくるのに?

あ、それとね、やっぱり断言。「離」の時空間は、ワープする象の鼻に巻き込まれたシュレディンガーの猫みたく、8次元的に迷走し歪んでた!ってね。