[コース] ISIS花伝所OBI-1 │ 輪読座 │
輪読座

 

 編集工学研究所フェロー 高橋秀元が、輪読と図象ワークに
よって読書を促進する輪読座を開催しています。

 近年、読書が推奨されていますが、読みたくても読めない本があります。そのような難読といわれる日本の古典を中心に、輪読師である高橋のナビゲーションのもと輪読をします。

 予習や前提知識も必要ありません。図象(ずしょう)と呼ぶ高橋が構成した“概念曼荼羅”を介し、お互いに声を出しながら輪読する事で解読力が自然とついていきます。

 2014年秋開講の『伊勢物語』からは、「サテライト輪読座」がスタートいたします。 全6回にわたる講座を動画共有サイトで生中継し、テキストで輪読座の進行を共有しながらサテライト参加者からのワーク・コメント・質問等を交えて進行いたします。 各回の資料や課題共有はリアルの参加者と同じくWEB上のラウンジで行い、サテライト参加者全員に全6回の講座映像をDVDにしてプレゼントいたします。
  ぜひ、遠方の方や時間の調整が難しい方のご参加も、お待ちしております。

これまでの輪読座



バジラ高橋

高橋秀元

松岡正剛と共に工作舎を立ち上げ、オブジェマガジン『遊』を世に送り出してきたコアメンバーの一人。
日本の神々について独特の解読を進め、観念の技術をめぐり執筆を続ける一方、出版や日本文化・観光・都市の研究、地域振興や文化施設などのプランに携わる。
イシス編集学校で密教のヴァジラ(金剛杵)を冠した教室を開いたことから、「バジラ・タカハシ」が仇名になっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

輪読座「伊勢物語」のご案内

    
     伊勢物語は、なぜ伊勢なのか?
    伊勢物語の多くの段の主人公とされる在原業平とは誰なのか?
    伊勢物語は、どのように、何のために編集されたのか?
    伊勢物語は、最初から現在の全125段の物語だったのか?

これらの解答は多様で、謎が謎を呼ぶ状態にあります。こうした謎を思いながら、伊勢物語の全段を読み通していこうというわけです。輪読座に予習は不要です。これまで、伊勢物語のような古典を読んだことがあるかどうかも問いません。いきなり、みなさんを伊勢物語の世界にお招きいたします。みんなで順次、声を出して読み、その声を聞くうちに物語がイメージされてくるという不思議な体験をしてください。
みんなで読みまわすことによって、伊勢物語の編集をときほぐしていくと、その面白さ、現代の日本が直面する問題に対応する意義がわかってきます。そこには過激な恋物語とともに国際社会化しようとする日本と日本の本来の葛藤が秘められています。
中学や高校で伊勢物語を断片的に習ったけれど、どうもわけが分からず、気になっている、今いちピンとこないとか、一人で読んでもよくわからないので、すっきりしたいというみなさん、どうぞふるってご参加ください。
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●光悦・宗達・西鶴の伊勢編集

伊勢物語は、どう編集された物語であったのかをちょっとだけ、ナビゲーションしておきましょう。
現在、一般的に読まれる伊勢物語は鎌倉時代の初期、藤原定家が天福2年(1234)に書写した「天福本」と呼ばれる系統の写本をもとに整理されたもので、安土桃山時代に本阿弥光悦が読みやすいフォントで印刷し、俵屋宗達がブックデザインにあたった嵯峨本に由来しているわけです。これは業平とされる在五中将と多くの女性との恋物語、いわば好色本のステレオタイプに位置づけられて広く流布し、『仁勢物語』(にせものがたり)などのパロディとともに、その物語の型を応用したヴァージョンが多く出現しました。井原西鶴の『好色一代男』などはその代表といえましょう。


   嵯峨本の『伊勢物語』

●昔の男は在原業平?

伊勢物語に在原業平の名は出てきません。「昔、男ありけり」ではじまる物語が多く、その他に在五中将を主人公とする物語が連続的に挿入されていて、この在五中将が在原業平とされてきました。在五中将の“在”が“在原”、“五”が“五男”で、在原氏の五男で中将になった人物といったら、在原業平でしょ、っていうことになっています。それで「昔、男ありけり」の“男”がみんな在原業平かといったら、どうも異なる主人公としか思えない物語も多いのです。それに伊勢物語は最初から伊勢物語と呼ばれていたわけでもないようです。
『在五が物語』『在五中将物語』『在五中将の日記』などと呼ばれる失われた諸本があったようで、そこに在五中将の生涯に詠んだとされる和歌が編集されていて、和歌を詠んだ状況の説明が付けられていたようです。『万葉集』の歌などに、それが詠われた状況などを、編集者が後世に忘備禄的に記した「詞書」(ことばがき)が付されています。 在五中将が詠んだとされる和歌に「詞書」のようなものが付されていて、その状況を物語的に編集した、いわゆる「歌物語集」としての『在五が物語』などがあったのでしょう。10世紀に紫式部が著した『源氏物語』に『在五が物語』のタイトルが出てきますから、后妃に仕える女房の間でこのような“原伊勢物語”が読まれていたと思われます。

●室町ルネサンスのニセ・イセ物語

9世紀末から10世紀前半に帝位にあった朱雀天皇が引退後に過ごした朱雀院が平安時代末期まで残されていて、その図書室であった塗籠(ぬりごめ)に『在五が物語』が収蔵されていたと伝えられます。平安時代の女房たちが読んでいたであろう“原伊勢物語”は、源平の合戦で失われてしまったといわれます。現在に残された伊勢物語のすべての原本は鎌倉時代以降に書写されたものなのです。
鎌倉時代には万葉集の研究もおこったので、ひらがな以前には万葉仮名が用いられていたことがわかってきました。それで『伊勢物語』の主人公であるとされる在原業平が生きた9世紀にはひらがなはなかったんだから、万葉仮名で書かれていたにちがいないというので、万葉仮名の伊勢物語があらわれたのです。これらはみんな室町時代の偽作であることが判明しています。これはこれでおもしろくて、室町時代の文芸復興、室町ルネサンスを彷彿とさせます。いずれにせよ、伊勢物語の編成には、みなさんもよく知っている「初冠(ういこうぶり)の段」ではじまり、男が“ああっ”と叫んで死ぬ「つひにゆくの段」で終わる「初冠本」のほかにさまざまな段落の編集がありました。

●恋か恨みか伊勢のストーリー

「初冠本」を基準とすれば、69段の「斎宮と密通する段」に始まり、異なる順序をたどって、11段の「忘るなよの段」で終わる「狩使本」が現存します。伊勢物語のタイトルは「狩使本」にふさわしいようです。「初冠本」は恋の遍歴がストーリーラインになっていますが、「狩使本」の順序に編集すれば、主人公の怨恨・逸脱があらわれてきます。そのほかに『在五の物語』と推測される「業平自筆本」なるものがあったといい、43段の「名のみたつの段」に始まり、125段の「つひにゆくの段」で終るものだったという伝承があるのです。これは現存の写本がないので、43段から125段までのすべてだったのか、そうとうな変化があったものなのかは知られません。そのほか、これらの段の編成以外の歌物語をふくむか、あるいは欠落したいくつかの異本があります。こうしたことから、伊勢物語は院政の形成時代まで編集されつづけ、藤原摂関政治が弱体化していく過程で、その編集の意義を失って中断した、いわば伊勢物語の編集の原動力が喪失されたと推測されるわけです。

●原伊勢と現伊勢の数寄な運命

いずれにせよ、業平の生涯に読んだ和歌の詞書のようなものを物語に編集した『在五が物語』と現存の各種の『伊勢物語』には大きな溝があったことも明らかなようです。どうも、『在五が物語』のような“原伊勢物語”は秘本のような扱いがなされていたようです。これが貴族階級から落ちこぼれ僧形になって諸国を流離した“数寄の集団”によって持ち出され、編集され続けて、『伊勢物語』が形成されてきたのではないかと思われます。その編集者群は摂関家が実権を握る政権に対する抵抗集団でもあったわけです。
こうした抵抗集団が『在五が物語』に、在五中将の運命と同じような流離の貴族の和歌をもとにした歌物語をつくって挿入、編成しながら、『伊勢物語』を形成していき、院政期には現存する『伊勢物語』の方が広く流布していたと推測されます。それで貴族の書庫に放置されていた『在五が物語』のような“原伊勢物語”は源平争乱の中で消失してしまったと思われます。というのも、“原伊勢物語”は反逆の書の風采を帯びていたために写本がなかなか許されず、民間に編集された『伊勢物語』の方が多く書写されていきました。そのため京都や南都を焼き尽くした源平の争乱に現在の『伊勢物語』が生き残ったというわけです。

●平常が平城への乱

では、在五中将こと、業平が属した在原氏とはどんな一族だったのでしょうか?
平城京を棄てて平安京に都を移したのが桓武天皇です。桓武天皇の第1皇子の安殿親王(あてのみこ)が51代平城天皇となり、第4皇子の神野王が52代嵯峨天皇、第5皇子の大伴皇子が53代淳和天皇に即位し、淳和天皇は嵯峨天皇の第2皇子に譲位して54代仁明天皇を立てました。ここに平安朝の王統が定まったわけです。ついでに言うならば、その第7皇子が臣籍に降った良岑安世(よしみねやすよ)で、その嫡子に貴族を棄てて僧形となり、東北地方に歌枕を求めて遍歴した僧正遍照がいたわけです。 この平城天皇の子孫が在原氏です。平安時代の初期に、こんな複雑な皇位継承がおこなわれた原因に、平城天皇がその諡(おくりな)のとおり、平城京に都をもどそうとしたことにあったのです。平城天皇の皇太子とされていたのが高岳親王、その弟が阿保親王でした。
平城天皇はできたばかりの寂しい平安京になじめず、爛熟した平城京を恋しがりました。これが王朝を二分させて藤原薬子の変がおこり、神野王が立ち上がって平城天皇軍を破りました。そこで平城天皇は廃位されたわけです。高岳親王は皇太子を廃され、空海のもとで出家して真如法親王となり、日本を脱出してインドに向かい、東南アジアに没しました。それで天皇に即位するはずがなかった神野王が嵯峨天皇になって、自分の皇子を皇太子にしないということで政権を掌握したわけです。

●業平、東下りにルーツあり

高岳親王に子孫があって、これはみな皇族を去って臣籍となり、在原姓となって摂津や肥後の在原氏になったとされます。平城天皇の第2皇子、阿保親王は針のむしろに座らされたようなもので、大宰府に左遷され、さらに今の千葉県、上総(かずさ)の長官として下向させられました。阿保親王は男子を臣籍に下らせ、在原姓を名乗らせました。この次男が在原行平、5男が在原業平でした。阿保親王系の在原氏は関東と深い関係がありました。長男の仲平は中央政界を離れて遠州の開拓領主になりました。こういうこともあって、在原一族の開拓地が東海、信州、甲州、房総方面に分布し、業平伝説がその地域に広がったわけです。

   百人一首の在原行平、在原業平の読み札

●兄・弟の対なる人生

在原行平・在原業平は京都の朝廷に仕えたのですが、真逆な生き方をしたようです。在原行平は父のあとを継いで謹厳実直な文官、能吏となり、民政に手腕を発揮しました。在原氏の学問所として大学別曹奨学院を創設して漢文を基本とする教育に当たり、前衛的な唐の琵琶の演奏にも優れた才能を示しました。
しかし藤原氏が政権を壟断(ろうだん)しはじめると、在原行平は煙たがられ、鳥取県の長官、因幡守(いなばのかみ)に遠ざけられました。百人一首の在原行平の「立ちわかれいなばの山の峰におふる まつとしきかば今かへりこむ」は、因幡守に左遷されたときに詠まれました。その後、瀬戸内の諸国の長官を歴任します。帰京しても、藤原氏の妬みを買い、須磨に配流されてしまいます。それにもめげずに中央の政界復帰を果たし、貴族の議会に参加する参議にして、財務長官の蔵人頭(くろうどのかみ)の要職に就いたのです。65歳でやっと中納言になって、70歳で引退しました。

●業平の目論見、親王のロクロ民を生む

これに対して、弟の業平は武官の道を進みました。桓武天皇の曾孫だというのに官位はいっこうに上がらず、和歌に興じました。平安時代の前期は朝廷、貴族が日本語を軽視した時代でした。政府の公用語は唐語とされ、日本の漢詩文が絶頂に達したのです。唐との交流が深まって国際語化した唐語で書いたり、話したりすることが官僚、インテリの必須条件になっていました。まだひらがなはなかったので、日本語は万葉仮名で記すしかありませんでした。そんな時代に和歌などを詠む貴族はアナクロで、朝廷の文教政策に反抗するものとみなされたわけです。
三代実録に業平の人柄を「体貌は閑麗、放縦にして不拘、略に才覚無く、善く倭歌を作る」としています。美男の偉丈夫で、物事にこだわらず、出世する才覚がなく、倭歌に優れていたというわけで、貴族社会のアウトローでした。業平は藤原氏の后妃が生んだ天皇ではなく、古代氏族に出身した皇子を天皇に推戴しようと画策します。それが文徳天皇と紀氏の妃から生まれた惟喬親王(これたかしんのう)でした。聡明だった惟喬親王は天皇から立太子を望まれましたが、藤原良房の娘の明子が生んだ惟仁親王がたった数え一歳で立太子されて清和天皇となり、業平の目論見は水泡に帰したのです。伊勢物語に中央政界での出世に希望を失った惟喬親王の和歌サロンでの業平の活動が物語化されています。惟喬親王は近江の山中に隠棲して山人に木工のロクロの技術を教えたとされ、木地師の祖とされています。

●高子を支えた業平、清明

現代でも公用語を英語にしてしまおうという風潮がありますが、日本人の男女の恋は英語なんかではしっくりこないわけです。“I love you”なんて、カレシに言われたってウソっぽいでしょう。それと同じで平安時代の初期には、女性が恋の贈答の和歌を守っていました。漢文の恋文では感動できないわけです。そうした中で、7歳年下の藤原氏のマドンナ、藤原高子(たかいこ)が業平の倭歌を好みました。超セレブな女性が不良っぽいイケメンのダメオに好意をもつことがあるわけです。
業平は高子の和歌サロンに招かれて、アバンギャルドな新感覚の和歌を披露しました。だからといって、対立した氏族の業平と高子の恋心が成就するはずもなく、高子は25歳の時、9歳年下の清和天皇の女御となり、陽成天皇を生んで藤原氏の権力構造を安定させる役割をはたしました。高子は皇太夫人となり、清和上皇・摂政の藤原基経と共に幼い陽成帝を輔佐して権力の絶頂に立ちます。何の因果か、業平は高子の贔屓(ひいき)で中将に昇進しました。でも、清和上皇が亡くなると、高子と藤原基経は対立し、高子は内裏を出て二条院に移り住みます。この孤独な高子を業平は支え続けました。こんな高子を支えたもう一人が陰陽師の安倍清明だったわけです。

●なぜ伊勢なのか? 日本の本来を求めて

『古今集』に採録された「ちはやぶる神世もきかず龍田河 唐紅(からくれない)に水くくるとは」の詞書に「二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる」とあります。高子が50歳になった秋の祝宴に紅葉の屏風が出され、それを題に業平が倭歌を詠いました。龍田は古くから風神が祀られたところで、竜田川の紅葉の色は気象を占う指標でした。その紅葉の色が“唐紅”というところが前衛的なわけです。“唐紅”は日本人が感じる紅ではなかった。
“唐紅”は唐の長安で流行していた当世風の紅色です。そんなエキゾチックな紅色を古き倭国の風神の予兆を示す紅葉の色にもってきたところが前衛的で、諧謔的でさえあったわけです。伊勢物語では、この唐紅の紅葉の歌にまつわる物語は、106段に「むかし、男、親王たちの逍遥し給ふ所にまうでて、龍田河のほとりにて」と、そっけなく挿入されているにすぎません。その落差に伊勢物語の編集の意図を推察することができます。
こんな業平が国際化する京都を嫌って、日本の本来を求めて脱出したにちがいないというわけです。平安時代中期末の『平仲日記』などでは、業平みたいに東下りする勇気もないと記されていて、それが実話ととらえられていたようです。そこにいたる精神の遍歴が、業平的な貴族群の歌物語をも編入しながら、伊勢物語に編集されつづけたわけです。 それで、伊勢物語は、なぜ伊勢物語なのか?
それは、みなさんと一緒に輪読座で自由に読み解いていきましょう。
どうぞ、ふるってご参加ください。

輪読師・高橋秀元


輪読座・参加者の声
輪読座でなければまず一人で読むことがない書籍ですよね。
図像含め横へ広がる話がとても刺激的です。
手の付けにくい本でもみんなで読むと読めてしまう。
これは予想以上に面白く続けたいです。
図像ワークもチームでやるので、コツが少しずつわかるようになり、理解が進みました(教えてもらえます)。
読みを深め、内容をイメージすることが、この場に参加しなければ絶対できなかったと思います。

募集要項

講座名 輪読座
『伊勢物語』を読む
日時 10/26(日)13:00~18:00
11/23(日)13:00~18:00
12/23(火・祝)13:00~18:00
1/25(日)13:00~18:00
2/22(日)13:00~18:00
3/29(日)13:00~18:00 (終了後、修了証書授与・懇親会)
場所 編集工学研究所 世田谷区赤堤2-15-3
1F ブックサロンスペース「本楼」
定員 限定30名※定員になり次第、締め切らせていただきます。
申込

◎リアル講座:6回分 税込価格 54,000円(本体価格 50,000円)
         ※クレジットカードがご利用になれます。(分割払い可能)
    ※記録映像データ、資料などは欠席された場合、お渡しいたします。

申込み

 

◎サテライト講座:6回分 税込価格 32,400円(本体価格 30,000円)
         
※クレジットカードがご利用になれます。(分割払い可能)

申込み

お問い合わせ先 03-5301-2213(直通)
front_es@eel.co.jp
受付時間 AM10:00~PM6:00

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