4月22日 靖国神社では春季例大祭があった。この日に合わせ
台湾から蔡焜燦ご夫妻が来日された。お二人とも とても元気。
「南海に果て、北に屍れた戦友たちが眠る社に(蔡さん)」参拝
されたのであった。
私たち台湾ファンや多くの学者 言論人 新聞人そして蔡さんと
ゆかりの人々など100人ほどが、この機会に全国から靖国会館に
集まり ご夫妻を囲んで愉しい午後をすごした。
司馬遼太郎の「台湾紀行」(’93)は”街道をゆく”シリーズ40巻の
なかでも出色といわれる1巻である。「台湾紀行」刊行を契機に
日台の人々の交流が、幅広く急速に進んだことも良く知られている。
蔡焜燦さん(80)は本書で司馬遼太郎のガイド役をつとめた人である。
司馬は蔡さんを古語「老北京」をもじって「老台北」と呼んだ。
| |
|
|
| |
 |
|
| |
|
|
ダークスーツとシャツの蔡さんは細身で、80才とは思えぬ軽やかな
身のこなしだった。「目も記憶も悪くなって・・」と云われたが、軽妙で
ソフトな語り口。数々の思い出話を聞いていると、司馬遼太郎の
台湾取材を追体験しているかと錯覚するほどに興奮した。
蔡さんは私たち台湾ファンの間では、李登輝さんに次ぐ人気の高い人だ。
台湾を代表する「親日」以上の「愛日家」としても よく知られている。
「台湾紀行」のなかで「蔡さんの履歴をきくだけで台湾の戦後経済史を
学習することができる」と紹介されるほど蔡さんはビジネスを拡げた。
それは台湾が日本の戦後経済・産業の発展と軌を一にして発展、成長
した故である。
そして現在蔡さんは、台湾のシリコンバレーといわれる新竹地域で
電子会社(偉詮電子)の名誉董事長を務める著名な実業家だ。
日本は1895年から1945年までの50年間 台湾を植民地として
統治した。だから蔡さんも18才までは「日本人」であり、日本の
教育を受け、さらには”学徒動員”で働いた。
この半世紀における日本の植民地政策はすばらしく、蔡さんらは学校で
「公」や「誠」という、いわゆる旧日本の良き倫理をしっかり身につける。
そして蔡さんは2000年に「台湾人と日本精神」という名著を出した。
ー日本人よ胸を張りなさいー という副題がついている。
「台湾紀行」の読者には、すぐに思い出せることだが、全巻を通じての
司馬と老台北のゆるナビは とても快適なものである。蔡さんは博識で
志が高く、なにより経済人とは思えぬひょうげぶりがいい。
司馬遼太郎は終生 政治の世界を嫌い公私ともに政治家を避けた人だが
唯一「台湾紀行」においてのみ禁を破った。政治を論じ、李登輝総統と
対談した。本書で司馬遼太郎が、台湾の政治を直截に書いている時
「老台北」の果たした役割は実に大きいものだったと思う。
「蔡さんを囲む会」の会場で、蔡さんは最初の挨拶から、懐かしい
エピソードを多く語った。一方で私は蔡さんの話を聞きながら
「台湾紀行」を通して知った、蔡さんのイメージに違いが無いことも
わかり とても嬉しかった。
元海将が出席されていて、私は蔡さんの直立不動の「敬礼」を見た。
「台湾紀行」の取材を通して、ユーモアの多い蔡さんが司馬遼太郎に
会うたびにくり返した上官に対する敬礼である。この敬礼にも訳があり、
司馬は苦笑したが「蔡さんは日本陸軍の『歩兵操典』そのままの敬礼を
しますね」といわしめた「敬礼」である。
| |
|
|
| |
 |
|
| |
|
|
4月21日の産経新聞に蔡さんが大きく取り上げられている。
蔡さんが日本統治下で義務教育を受けた清水公学校を訪ねている。
内地人が通う学校は小学校と呼ばれ、台湾人のそれは公学校と呼ばれた。
産経新聞によると「この清水公学校では昭和10年、校内有線放送や
16ミリ映画などを使った最新の視聴覚教育が始まった」。これらは
日本本土にも無い先進の教育設備だった。「その副読本として童謡や
神話などを集めた『総合教育読本』は日本文化の凝縮だった」。
このほど蔡さんは、この『総合教育読本』の復刻本を自費出版された。
蔡さん夫妻は会場で よく日本の童謡や叙情歌を歌い、懇意のソプラノ
歌手にリクエストした。「赤とんぼ」「ふるさと」「椰子の実」など・・。
蔡さんに限らず 半世紀にわたる日本の統治下で教育を受けた、台湾の
日本語世代の人々にとって、日本は第二の故郷なのである。
しかし日本は敗戦後に台湾の領有権を放棄し、1972年にも中国を
承認して台湾と国交を断ち、二度までも台湾を見捨てることになった。
台湾の日本語世代が苛烈な戦後を生き通して、情感豊かな日本の歌に
好んで回帰することに 私はむしろ人の自然さを感じる。
私は40年、司馬作品を読んできて、幸いにも台湾の李登輝さんや
東大寺の守屋弘斎長老に お会いできた。蔡焜燦さんとは台湾で
お会いできなかったので既に諦めていたが、健康を回復され今回お会い
できたことは僥倖であった。
|