■金宗代(探源院)

求ム、本気ノ遊ビ夥

 私は、松岡正剛の「編集は遊びから生まれる」という言葉が大好きです。それ故、この言葉の抱えている果てしない物語に臨むべく、[離]のあいだずっと、「編集」とは何か、「遊び」とは何か、と問い続けました。
 「遊ぶものはみな神である」という古代中国の観念から産まれた「遊」という一字には、氏族霊の宿る旗をおし立てて、此方から彼方へと突き進むものの姿が刻印されています。他方、日本の遊部(あそびべ)は、死者の遊離魂(ゆうりこん)をよび返す職能者集団のことでした。このような「遊」の本来を考えると、「危うさ」や「際どさ」なしには、「遊び」は始まらないとさえ思えてきます。
 また、『梁塵秘抄』の「遊びをせんとや 生まれけん」は、「遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ ゆるがるれ」と続きますが、この「遊ぶ子供の声」は、いつの間にか、大人の耳には響かなくなります。でも離学衆には、「遊ぶ子供の声」を聞く「幼なごころ」を本気で取り戻す「勇気」が必要です。「幼なごころ」こそが未知の世界へ出遊する「方法の魂」を奮い起こす秘密です。
 「危険」と「発見」に満ち満ちた[離]にぜひとも挑んでみてください。世にも稀な「本気」の「遊び」が待っています。
■池澤祐子(探源院)

臨界知のキワを疾駆する

 知ったかぶりや知らぬふりをきめこんでいるのもマイウエイ。だけど、もし無知を嘆き・憂いているなら、そのときこそがオドキ・メドキの「時分の花」。未知のセカイに遊学する機が音連れているともいえましょう。無知から未知への道筋に方法が息づいています。これがとにかく格別・圧巻です。
 まず知のエンジンは全開に。始まったらもう後戻りなんてできません。その時空間に身を委ねるだけ。エディット・ピアフが「愛の讃歌」で語ったように、嵐がきて空も海も大荒れ、たとえ大地がひっくりかえっても、しっかりと臨む離適日常16週間。そして離前―離中―離後は、まさに世界奥義伝の読前―読中―読後と不即不離。院内模様は火のつい
たカンセンシャにみちあふち、アビキョウカンの個と類セカイが展開します。まさに一即多・多即一。
 物見遊山でなんかいられません。対岸の火事ではありません。古今東西の叡智を編集工学の真髄きらめく「文巻」がハイパーリンクしながら押し寄せ、セカイ読書には、渦中の泡や網の目となって「私」がいるのです。臨界知のキワを三密に疾駆する―それが[離]です。

■福田容子(構肖院)

予断不要・余感万感

語りえない「離」の秘密を、ひとつだけ明かそうと思う。

「離」はたぶん、とても個人的な遺失物を、あなたに届けてくれる。
それはあなたが長い間さがしつづけていたものかもしれない。
失くしたことさえ忘れていたものかもしれない。
一度も手にすることなく失っていたものかもしれない。

まさか、ここでこれに出会えるなんて。

もしあなたの肚の中に実はどうしようもなく一群の博徒が巣喰っているなら。
もしあの帰り道の夕立のアスファルトの匂いが思い出されて仕方がないなら。
もし身体から引きはがされた言葉の痛みに損なわれて立ちすくんでいるなら。

「離」で、あなたは出会うだろう。見つけるだろう。
あなたが探している何かを。それが何であるかをまだ誰も知らない何かを。
けれど出会えばわかるだろう。はるか彼方から、いつかあなたに届く声。
宿せば世界が変わる、火元校長松岡正剛の火種の欠片。

予断不要、予測不可能、余感万感。

遠ざかるほどに愛おしい。
「離」には、世界とあなたの秘密が待っている。

■村井宏志(構肖院)

方法とともにあらんことを

 [離]という格別な場への投企。それまでの知識もそれまでの日常も臨む覚悟も、1週目にして打ち砕かれる。閾値を超えなければ相転移は起こらない。まっすぐに未知に挑み続ける新たな覚悟を得たとき、本当の[離]が始まる。恐れることはない。いや怖がりだからこそ、向き合えるものがある。
 [離]では世界と自分の関わり方が変わる。自分という存在が歴史の縦糸と世界の横糸により編まれた網目の交点であることに気付くとき、混沌とした世界像とフラクタルでフラジャイルな超部分とがかわるがわるに見えてくる。
 [離]の16週間を超えたとき、文巻という知のOSがインストールされる。これは何物にも代え難い自分だけの有機的OS。全ての世界、全ての情報に対し、文巻をOSとして思考を走らせる今、回し続けるのは知覚と方法の回転扉。
 過剰にして過激。高速度にして高密度。何度も膝から崩れ落ち、傷だらけで走り切る16週間。それでも長い人生の中のたった16週間で、一生ものの知と一生ものの仲間が手に入るのだ。自分の中にある小さな爆弾に気付いているなら、迷うことはない。いざ、方法とともにあれ!