■米山拓矢(耽像院)

離の手ざわり

 [離]のテキストである文巻には、西洋の知も東洋の心も、科学も芸術も、歌心も恋心も、すべてが入っていました。「方法」が描く知の饗宴は、ここでしか出会うことができない宝物です。

 [離]に世間の書評は役立たないし、先入観がとてもジャマになります。文巻のおそろしさは、何通りにも読めるように書かれている点です。時には穿つようにも書かれているので、“わかったつもり”が一番アブナイ。

 [離]は、文巻が紐解かれるたびに自分が一刀両断されていく道場でした。そして、仲間との「共読」が莫大な力を育むラボラトリーでした。この不思議な重力場でのエンジンとなるのは、子どもなら誰もが持っている天まで伸びゆくジャックの豆の木のようなアナロジーです。

 目を瞑ってこそ見える光景。
 耳に届くはるか太古からの声。
 これこそ世界読書の喜びでした。
 何度でも出遊したくなる原郷と出会うことができました。
 「こんなことができるんだ」と素直に感動した渦中の日々が、
 今もくっきりと心身に鮮やかに蘇ります。
 この手ざわりを、一人でも多くの方と共有したいと願っています。

■小濱有紀子(耽像院)

「場」と礼節と、編集的自由

どこにも属していない自由。どこにも属していない焦燥感。
 どこかに属している不自由。どこかに属している安心感。

 自分の内なるこの矛盾を解くことが、私にとっての[離]のはじまりだった。

 「人」がいる。だから、その「あいだ」がある。これこそが、デジタルインターフェースにとどまらない、編集学校の大きな魅力である。それぞれの人には、それぞれの物語があり、そこには多くの負があり、多くの香ばしい失望があり、だからこそ、逃げずに立ち向かう人たちの内側に払うべき、宇宙的礼節がある。
 編集学校は、すべて、なにもかもに、「よそおい」「しつらい」「ふるまい」が凝らされている。それは集う人々と立ちのぼる思いに、最大限の礼節を示すためなのだ。

 だから、その「場」ごと、すべて記憶する。

 自分の負を認めることはもちろん、他人の負を覗き込むことも、実はとても苦しい。境界を設定すること、何かを切り出すこと。いずれも勇気が必要だ。
 でも、気づいてしまったら、もう目を背けることはできない。歴史の中で、あえてその内側に飛び込んでいった、たくさんの人たちを知ってしまったから。

 しかし、安心してほしい。決して逃げない同志が、ここにはいる。

 私にとって、耽るだけのものであった「本」は、文巻という「言葉」を通じて、世界と戦うための知の武器となった。
 手に入れたものはただの自由じゃない。「編集的自由」である。この言葉に触れたとき、欠けているものにこそ光を見いだし、「どこにも属していない安心感」を手に入れることができたのだった。

■蜷川明男(遊境院)

既存の思考では想像できない「世界」

第五季「離」が始まってすぐ、私は後悔をしました。準備が足りない、時間が取れそうにない、いくら先送りしようとも、言い訳の尽きることはないのですから、一年でも早く飛び込むべきでした。
 「離」により世界が変わるとは言いますが、既存の思考で、変わった世界を真に想像することなどできません。
 「離」は、既知の体系を遥かに凌駕しています。つまみ食いして、接ぎ木しようものなら幹が折れます。根元から植え替えるしかありません。
 『世界読書奥義伝』を丸呑みするとは松岡正剛を内に宿すこと。それは、世界を読み解く眼として、モーラの神の依り代として、とことんを鼓舞するけなげとして方法の根を張ります。世界が変わるとはそういうことです。
 そしてもし手を抜こうものなら、内なる熾火は身体を焼尽せんばかりに燃え盛ることでしょう。「一生の離」とはそういうことです。松岡正剛の意を継ぐとはそういうことなのです。

 準備、逡巡に意味はない。覚悟だけを手に、ルビコンを渡られよ! 彼岸にてお待ちしております。

■福田徹(耽像院)

学ぶ・真似る・磨くのフルコース

 守破をパサージュしてきた皆さん。もうセイゴオ編集術の柔らかさ・速さ・面白さは体験済みですね。編集が書籍や映像だけのものでなく、料理にもスポーツにもアートにもビジネスにも恋愛にも活きる方法だと知りましたね。

 さてISIS編集学校最奥の講座「離」の題目は「世界読書奥伝」です。これをどう読みますか。編集があらゆるモノに活かせるのに、いまさらなぜ「読書」に戻ってくるのでしょう。
 『多読術』(ちくまプリマー新書)の冒頭に、こういう言葉があります。

  本というのは、長い時間をかけて世界のすべてを呑み尽く してきたメディアです。

 離は、この言葉の意味を身体に刻み込むために設えられた場です。
 松岡火元校長を筆頭とした火元組とがっぷり四つに組み合って、学ぶ・真似る・磨くのフルコース。世界のどこにもない過激な文巻と稽古が離学衆を捉えて放しません。集中治療院からは、平日も週末も図書館を除いて外出禁止。世界知のウィルス注射による人体実験を経た離学衆は皆自ずから、なぜ読書だったのかに開眼します。変化は好ましいものばかりとは限りませんよ。何かを知るとは、言葉が生まれ・世界が動き・心も移る、編集のダイナミズムそのものなのですから。

 独りでは抱えきれないほどの自由を得に、覚悟と準備を調えて、どうぞ。