輪読座

輪読座 日本哲学シリーズ第五弾
「空海・最澄 両読み①」

日 時

2017年10月29日(日)
2017年11月26日(日)
2017年12月24日(日)
2018年1月28日(日)
2018年2月25日(日)
2018年3月25日(日)
すべて13:00~18:30

難読古典を輪読し、図象解読する
イシス唯一のリアル読書講座

難読といわれる日本の古典。古事記・日本書紀、万葉集にはじまり、聖徳太子、空海、閑吟集、三浦梅園、西田幾太郎、折口信夫、井筒俊彦など。輪読師である高橋のナビゲーションのもと、リアルとネットで輪読し、図解していきます。
輪読師・高橋秀元は、松岡正剛と共に工作舎を立ち上げ、オブジェマガジン『遊』を世に送り出してきたコアメンバーの一人。松岡が「学者10人力」という博覧強記の編集者です。日本の神々について独特の解読を進め、観念の技術をめぐり執筆を続ける一方、出版や日本文化・観光・都市の研究、地域振興や文化施設などのプランに携わっています。
輪読座では、予習や前提知識も必要ありません。図象(ずしょう)と呼ぶ高橋が構成した“概念曼荼羅”を介し、お互いに声を出しながら輪読する事で解読力が自然とついていきます。

古典の歴史、概念の前提を輪読師・高橋が図象で徹底解読

古典の歴史、概念の前提を
輪読師・高橋が図象で徹底解読

声を出す輪読と輪読師解説で難読古典も通読できる

声を出す輪読と輪読師解説で
難読古典も通読できる

図象ワークを通して自ら解読し、伝える力を養いアウトプットする

図象ワークを通して自ら解読し、
伝える力を養いアウトプットする

サテライト輪読座

2014年秋開講の『伊勢物語』からスタートした「サテライト輪読座」。全6回にわたる講座を動画共有サイトで生中継いたします。各回の資料や課題共有はリアルの参加者と同じWEB上のラウンジで行い、記録映像と記録音声を期間中いつでもご拝聴いただけます。
ぜひ、遠方の方や時間の調整が難しい方のご参加も、お待ちしております。

輪読座・日本哲学シリーズ第五弾
「空海・最澄両読み①」のご案内

 永らくお待たせいたしました。これまで、空海と最澄の両読みをするにあたって、なにを読めば、日本哲学の二大潮流をなす、「天台-禅・浄土・法華」と「空海密教」の相違を把握しつつ、それらを二十一世紀の日本の思索に役立つ輪読になしうるかに悩んできました。 
 若干の体調不良もあり、みなさまへの告知が遅れてしまいました。広尾の都立中央図書館に通って、最澄と空海の書き下し、現代語訳を読みあさって、次のように空海・最澄両読みのプログラムを決しました。まず、これをご覧ください。

空海・最澄両読み① 2017年10月~2018年3月

・第1回~第2回=最澄『顕戒論縁起』を読む
 天台宗成立の理論的根拠のよってきたる所を述べる。

・第3回~第4回=最澄『決権実論』を読む
 筑波山に住した法相宗の徳一との論争に、「法の相」は「権」(仮)とし、
  「法の性」を「実」 として、法相宗から法性宗への転換を促した。
  法性の探求は天台宗から禅宗・浄土真宗・ 法華宗に受け継がれ、
  西田幾多郎の哲学に及びました。これは軽く近代が依拠するヘーゲル哲学を
  軽く乗り越える哲学潮流の水源となっている。

・第5回~第6回=空海『弁顕密二教論』を読む

 空海が最澄の法性を探求する仏教を顕教とし、密教との相違を述べた。
 現代哲学のいずれも、空海密教の世界像に論及していない。

空海・最澄両読み② 2018年4月~2018年9月

・第1回=最澄『山家学生式』を読む
 最初の節に「照于一隅」(一隅を照らす)の一句がある。これは社会の一隅にあって
 そこを照らす者こそが菩薩であるとする。このような菩薩を育てるために、
 比叡山に新たな大乗戒壇を設立する決意を示した。

・第2回~第4回=空海『声字実相義』を読む
 空海は人間の認知する波動世界を有限としたが、そこに無限が混じっている
 と考えた。この無限を全波動が引き起こす世界とし、そこから人間の認知する
 波動世界を考察した。波動は声・字に限定される「情報」ともなり、
 いわば「情報」が「物資」を生じるという理論を展開する。

・第5回~第6回=空海『即身成仏義』を読む
 身体(フィジカル)が波動の固着とすれば、身体を具有する人間存在は、
 そのまま成仏し ていることを説く。

以上のプログラムをご覧いただきましたら、早速、「空海・最澄両読み①」への参加をお申し込みくださいませ。

 これを十月七日に決意を固め、以上のプログラムで行こうと決めて、その案文を編集工学研究書に送ろうとコンピュータを背負って「出雲①鉄王スサノヲ」の旅に出立し、永年、実見したいと思っていた「蹈鞴製鉄」に立ち会うなど、充実した日々でしたが、どこにもコンピュータ環境がなく、帰還してからも、感冒に伏して、ようやく最後の案文に到達いたしました。再度、空海・最澄を読み直してみると、最澄が真面目な中にすっ飛んだところがあって、骨があってなかなか良いんです。
 最澄を輩出した一族の文化に特異なものがあって、これが桓武天皇を魅きつけたのでした。それで、今回の案内文は、最澄を生み出した歴史的環境を眺めてみることで、皆様の「空海・最澄両読み①」への参加への呼びかけとしたく思います。そこには日本史がおろそかにする外交、文化の国際交流・対決構造が存分に織り込まれています。
 今や輪読座に参加しようとする有志に、誰かから聞いたり、教育で刷り込まれた情報を「既知の情報」として、それを易しいと思い、誰かが気づいていながら、聞いたこともない情報を「未知の情報」と勘違いして、それを難しいとするような怪しい感度をもって臨む人はいないでしょうから、以下の「知らなかった情報」は、一応、了諾していただいて、読み飛ばしながら、楽しんでいただきたい。

 

◎輪読座への参加の心構え

  • 1.予習禁止=輪読座は「無知」を尊びます。予習の多くが先行する意見・定義の再認であって、自由な発想をさまたげる。輪読座では人が読むのを聞いて思いつく自発的意見を重視し、教科書の文言や通説、既存の学説・解釈の受け売りや代弁を禁止する。
  • 2.読めない状態の参加でよい=輪読座では配布されるテキストを声に出して読みまわします。そのとき、読み間違い、読めない文字の飛ばし読み、たどたどしい読み方などをとがめない。そのたいがいに重要性はない。人が読むのを聞き、自分が読んでいるうちに発声の呼吸・調子が分かって読めるようになってきます。読み手が読めないところを聞き手の読める人がフォローすることは許可する。
  • 3.疑義に発言・応答する=知らないワード・人名・地名などは休憩にスマホでチェックすればよい。しかし、どうして?なぜ?が生じたら、それを提示しなくてはならない。それは既存の知識では解決できないことが多い。そのときは全員が自由に見解を発露してよい。輪読師が疑義を投げかけたら、思いつくままに答えなくてはならない。疑義や答えを誹謗してはならない。疑義や答えのフォローは許可する。
  • 4.読みまわした内容の編集と発表=輪読座では、読む対象の時代状況、その内容のよってきたる所を重視し、それを輪読師が「図象」(ずしょう)で提供。「図象」では読む対象ならではの特殊な用語・術語の図示による解説も行い、内容把握の障害をできるかぎり除いて輪読をはじめる。その中間で読んだ内容を二人組で三環連結・三位一体・二軸四方などを組み合わせて図示し発表。参加者は必ず、これを実行しなくてはならない。
  • 5.宿題が出る=人間は忘却の動物。読み終われば、次の瞬間、内容を忘れる。そこで輪読の終了後、その日に読んだ内容を読み返さないとできない宿題が出される。その答案は輪読師が毎回提供する「図象」の型を参照して作成。そのうちの2、3の答案を、次回の輪読の開始の前に発表していただき、前回の内容を思い出して次の輪読に入る。宿題を提出しないからといって論読座への出席は拒否されない。宿題の答えを出さなければ、読んだ内容を説明できなくなることが多いが、これは自業自得とする。
もっと見る

 もっとも、最澄はたとえ神々であろうと、どんな賢者であろうと、未だに誰も知らない情報を「未知の情報」とし、それを切り開く「法の性」こそが、人間に備わる精神としました。それまでの日本仏教は「法の相」を探求する法相宗でした。この法相宗から法性宗に切り替えたのが最澄でした。
 最澄の出現は、中大兄皇子=天智天皇にはじまる天智朝と深く関わっていました。天智天皇の後継者、大友皇子が壬申の乱に一時途絶えて、天武朝になって、部族連国家・倭国は律令国家・日本となったのですが、天武朝は、神護景雲4年(770)、称徳女帝が没して途絶え、天智天皇の孫で、称徳女帝の妹の井上内親王を妃とした白壁王が光仁天皇となって、天智朝が復活したわけです。
 光仁天皇は、天武朝と天智朝の統合を象徴していたわけですが、これらのしがらみを断ち切って、日本をリセットしようとしたのが、白壁王と百済武寧王の子孫と称する渡来系氏族、和氏出身の高野新笠との間に生まれた山部王でした。山部王は残忍な謀略を駆使して、桓武天皇に即位しました。桓武天皇は深い心の闇を抱えざるをえなかった。最澄は、その救いようのない桓武天皇を救済する仏教こそが“真の仏教”とし、天台宗を選択したのです。それは華厳思想に続く「法性宗」であって、後世に日本の禅宗・浄土宗・浄土真宗・日蓮宗を派生させたわけです。

 それにしても、最澄が出現した背景には、大津宮に天智天皇を迎えた比叡山山麓に古墳時代に南鮮から入植した特異な共同体群があったわけです。今回の案内文は、最澄を生み出した文化環境を基礎に、それを大づかみにしていただけましたら、ありがたく存じます。ちなみに、「空海・最澄両読み②」においては、空海を生み出した言霊的文化環境を概説いたします。


◎最澄を育てた文化環境
 最澄の本名は三津首広野(みつのおびとひろの)という。三津首氏は後漢のラストエンペラー孝献帝(献帝)の子孫とされた登萬貴王(とまきおう)で、応神天皇時代に倭国に渡来したとされていました。三津氏は琵琶湖の南の西岸一帯、今の坂本周辺を本拠地として、多くの渡来系氏族を受け入れ、特に叡山の一角、八王子山の岩倉に祀られた大山咋神(おおやまくいのかみ)のもとに結束して独自な文化を形成しました。大山咋神はスサノヲの子とされる大年神(おおどしのかみ)の子とされている。このスサノヲは高天原を追放されて出雲、あるいはその周辺の山間地に降りたスサノヲではなかった。『日本書記』の神代上第八段の一書に、スサノヲは天界から新羅のソシモリ(曽尸茂利)、「ソシ」は「牛」、「モリ」は「頭」を意味し、いわば「牛頭」に降りたが、「住む処ではないから去る」と言って出雲に来たというのがあります。
 これは三国時代の韓半島南部に分布する牛頭山、牛首山、あるいは牛首嶋、牛頭嶋に由来するという。「牛頭」といえば、釈迦が説法した祇園精舎を守護した牛頭天王があります。卜部兼方の『釈日本紀』に引用された『備後国風土記』逸文に牛頭天王は武塔神と称され、スサノオと同一視している。高天原を追放されたスサノヲ、武塔神が地上に降りて苦難にあったとき、富貴な弟の巨旦将来は宿泊を拒否し、貧しい兄の蘇民将来は宿を貸したという説話を記している。『先代旧事本紀』ではオオナムチノミコト(大国主)の荒魂が牛頭天王であるとする。この牛頭天皇は疫病を防ぐ祇園神として信仰されてきた。
今も祇園祭で有名な京都の八坂神社は、もとは東山一帯を開拓した古き八坂造(やさかのつくり)の聖所であって、八坂造は、崇峻天皇2年(589)、今も八坂塔が残される法観寺を建立しています。創建時の伽藍飛鳥式伽藍配置であったようで、五重塔は聖徳太子が如意輪観音の夢告によって建造したと伝える。八坂氏も秦氏と並んで、聖徳太子の親衛隊を構成したと思われる。
 斉明天皇2年(656)、高句麗の使、伊利之使主(いりしのおみ)が来朝したとき、新羅の牛頭山に降りたスサノヲを八坂造の聖所に祀ったと伝えられ、伊利之使主が後世に及ぶ八坂氏の祖とされている。八坂神社は奈良時代には法相宗の興福寺の末寺となり、牛頭天王は薬宝賢明王と称し、本地を薬師如来とするようになった。平安時代初期に最澄が開いた延暦寺の末寺・感神院となり、貞観11年(869)の疫病流行に験を顕し、これが祇園祭の起源となった。

 いずれにしても、韓半島南部にも磐座信仰があって、韓半島から日本列島に移住してきた人々の定住した地域に韓半島の磐座信仰に持ち込み、そこ降臨する神をスサノヲとして、独自な神々の系譜を形成し、故郷の韓文化を保持したと推察されます。山城の八坂造氏も近江の三津首氏と連携していました。
 余談になりますが、紀元前後ころから原新羅の辰韓十二国があり、その中の斯蘆国(しろこく)が十二国を統一し、四世紀後半に新羅と称し、五胡十六国に氐族(ていぞく)が建国し華北を統一した前秦王朝に朝貢しました。それまでの中華亜大陸の仏教は、仏教の用語を老荘思想や儒教の漢語に翻訳し、漢語の概念で仏教を解釈する格義仏教でした。前秦王苻堅は、弥勒菩薩像を建立して誓願し、仏教の経典の原典に立ち戻り、そのサンスクリットの用語の概念から漢語を選択、あるいは造語して翻訳しようとしていた釈道安を国師に迎え、それまでの中華帝国に取って替る、新たな帝国構想を打ち出していたのです。これは儒教や老荘思想も、それぞれの用語の概念を明確にして、その哲学、世界観を再構築する作用をもたらしました。
それでソシモリ(曽尸茂利)に戻れば、牛頭山・牛頭嶋などは辰韓十二国の基礎共同体が信仰した聖山であって、それぞれの共同体の成員の志願者が聖山に招いた弥勒菩薩に請願して、辰韓十二国の統一の為に働くようになった。これが「花郎」(ファラン)となっていった。「花郎」の源流は原始社会の男子集会所(メンズハウス)にあって、戦争状態が持続するような状況が生じると特異な戦士集団に発展することがあり、『魏志韓伝』には韓族の男子集会所、そこに参加する通過儀礼(イニシエーション)について記されています。これは歌舞遊娯の青年クラブ(文化・言語の共有)、それを侵犯する勢力に対する自衛機関、青年の教育機関、官僚・武人の養成機関に発展し、六世紀には国家制度に組み込まれ、新羅を強国に押し上げたわけです。
 それはそれとして、新羅の牛頭に降りたスサノヲは出雲から琵琶湖南部の西岸地域の八王子山に渡ったようで、『古事記』には、スサノヲの子の大年神は伊怒比売との間に韓族の神らしき大国御魂神(おおくにみたま)・韓神(から)・曾富理神(そほり)・白日神(しらひ)・聖神(ひじり)を生じ、香用比売との間に大香山戸臣神・御年神、天知迦流美豆比売(あまちかるみずひめ)との間に奥津日子神・奥津比売神・大山咋神、家に神を迎える庭の神や人間が住む土地神(大土神)、山から里に神を招く境界の聖所の神などを生じたとする。

 そこで『古事記』は奥津日子神・奥津比売神は「諸人のもち拝(いつ)く竃(かまど)の神なり」と記し、後世には大年神・奥津日子神・奥津比売神は「三宝荒神」として信仰されました。この竈は囲炉裏が中心だった倭国の住居に華北から韓半島を経てもたらされ、西日本に調理場を自立させた家屋革新をおこしました。『古事記』は大山咋神について、「近つ淡海国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑(なりかぶら)を用(はな)つ神なり」と記します。これは今の近江の日吉神社、京都の松尾神社にあたり、鳴鏑は鏑矢(かぶらや)のことで、大山咋神が保護する共同体の領域を定める儀礼に用いられ、今では神社の神事となっている。大山咋神の「咋」(くい)は土地の境界に立てる標識の「杭」(くい)であるともいう。これは「国占め」の神であって、そこに文化を保持し、人々を涵養するシステムが作動していました。


◎天智天皇の大津京と日枝(日吉)社の整備
 七世紀後半、倭国は大きな変動に見舞われました。蘇我入鹿は聖徳太子の皇子、山背大兄王一族を滅ぼし、隋から唐への変動期におこった韓半島の動揺から倭国を遠ざけ、独裁政権を築こうとした。皇極天皇4年(645)、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こし蘇我氏を滅ぼした。中大兄皇子はクーデターの首謀者であったために天皇にはならず、皇極天皇の弟、軽皇子が皇太子を経ずに、皇極天皇から譲位されて、孝徳天皇に即位しました。
 孝徳天皇は即位日(645・7・17)に初めて元号を立てて大化元年とし、この間、大化改新を実行し、大化6年に元号を白雉元年(650)と改めました。この頃、中華大陸の帝国に冊封された国は帝国の元号を共有したのですが、倭国が独自な元号を立てたということは、大陸の帝国からの完全自立を宣言したことになります。難波長柄豊碕宮に遷都し、国際政治に乗り出して最初の遣唐使を派遣したものの、中大兄皇子らは反対して飛鳥に去り、孝徳天皇は難波宮に孤独死したのです。二十世紀の日本史では、孝徳天皇の大化改新は無かったとする説が台頭し、大化改新論争となっていた。二十一世紀に入って、全国の木簡が多数発掘され、木簡が大化・白雉にさかのぼることが明らかとなり、『日本書記』の記述と比較されて、大化改新論争そのものが誤っているとされ、その再構築が進められはじめた。
 孝徳天皇は初めて阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌子内臣とする内閣を構築し、遣隋使となって隋の国家体制、宗教政策を学んだ僧旻(そうみん)と高向玄理を国博士として国家経営の方策を提案させた。大化2年(646)の正月、改新之詔を宣し、諸国に兵庫を修営させ、中大兄皇子が自らの入部と屯倉を天皇に献じさせて、諸皇子の屯倉や領地を天皇のもとに集中して、倭国の中核領域をはっきりさせている。王臣と庶民の墓制を定め殉死を禁止し、神祇の祓(はらえ)にまつわる愚俗を禁じています。
 それまで地域行政を担ってきた品部を廃止し、官位を定めて官僚による地域行政体制の構築を目指した。木簡は拡大した天皇領の地域に情報を伝達するために開発され、戸籍もその領域において、徐々に整備されていったことが明らかになってきた。あるいは、当時の通貨であった無文銀銭を国際的に流通する品質に高めて国家管理したことも明らかになった。国際関係においては、百済の倭国への過剰な要請を避けて、新羅の存在を認め、新羅皇子の金春秋(後に統一新羅を実現した武烈王)を厚遇し、新たに大陸を制覇して成立した唐との国交を築こうとしました。二十一世紀には孝徳天皇時代の革新が見直されてきています。しかしその政策には、皇族の既得権を侵すものでもあった。
 孝徳天皇の皇族の領地や品部の天皇領化や国際政策に中大兄皇子その一党は反対して飛鳥に去り、孝徳天皇の孤独死後、皇極天皇を重祚させ、飛鳥板蓋宮に斉明天皇として即位させました。このような倭国の政変を睨んで、新羅皇子・金春秋は倭国を脱出して唐に渡り、唐羅同盟を構築したのです。金春秋は、孝徳天皇が没した654年(白雉5年)、新羅に帰国し、武烈王に即位しました。その翌年、高句麗・靺鞨・百済の連合軍(麗済同盟)が新羅を攻め、北部33城が奪われ、新羅は滅亡の危機にさらされた。
 武烈王は唐に救援を求め、660年3月、唐は海路で百済討伐に出兵し、新羅軍ともに百済の義慈王を投降させ、百済は滅びました。ここに斉明天皇は中大兄皇子を総司令官として、九州の朝倉宮に遷都し、百済復興軍を支援する体制を整えたものの、韓半島出兵直前に崩御。中大兄皇子は斉明天皇の遺骸を飛鳥に運び、2年の(もがり)の後、倭軍を百済復興軍白村江に決戦し、倭軍は唐羅連合軍に壊滅させられて、敗北したわけです。
 九州に亡くなった斉明天皇の後をついで中大兄皇子は、九州にあって国防政策に邁進し、天智天皇七年(668)、中大兄皇子は大津宮に遷都して天皇となり、大化改新が進めてきた政策の国家的実現をはかった。この大津宮の地は、かの韓半島の牛頭に降りたスサノヲの子、大年神や大山咋神を奉じる三津氏を中核とする古き大陸からの移住者の土地でした。天智天皇は大山咋神の祭場を東本宮、新たに奈良の三輪山から大物主神を招いて西本宮とし、日枝(日吉)大社を整備し、倭国の基層共同体を定めて、これを基盤とする国家経営を打ち出したのです。

 これを象徴的にいうなら、竈文化圏の畿内を倭国の中核とし、囲炉裏文化圏の東国・西国などは、竈文化圏の畿内の縁辺として守備領域、収奪領域とする重層国家方式だったといえましょう。それは根深い関が原辺りを境にする東西文化の亀裂となって残っている。それはともかく、天智天皇の皇太子とされた大海人皇子は、僧侶となって吉野に去り、天智天皇が没して大友皇子を後継者とすると、集まった同朋と吉野盟約を交わし、伊勢から美濃に出て、東国の兵を結集して大津宮に進軍。大和を逼塞していた大伴氏が押さえて、大友皇子は戦死した。こうして北九州から関東までを統合する天武朝が開かれた。


◎新羅独立戦争に助けられた倭国、則天武后の武周革命
 この間、韓半島の旧百済領を属領化した唐軍は、倭国の天智天皇7年(668)、新羅の武烈王の後を継いだ文武王が率いる新羅軍とともに高句麗を滅ぼした。ここに唐は百済の故地に熊津都督府、高句麗の故地に安東都護府を設けて親唐派の王を立てて支配し、新羅も鶏林州都督府として新羅を支配しようとし、さらに博多沖に海軍を派遣し、近江朝に倭国に降伏を迫った。
 ここに文武王は高句麗攻略に北方に派遣した新羅軍と高句麗遺民を率いた高句麗王子・安勝を連合させて、倭国の天智天皇9年(670)、鴨緑江を越えて唐が北方民族の支配拠点として安北都護府を置いていた ウチュケン山(鬱督軍山:今のウランバートルの西方400km)への意表をついた大遠征を敢行させ、韓半島各地にゲリラ戦を展開して、新羅独立戦争を開始しました。唐軍は倭国制圧策を放棄して韓半島平定に専念せざるをえなくなったのです。
 ウチュケン山はモンゴル高原から西域にかけて遊牧帝国を築いたトルコ系連合体(突厥:とっけつ)の聖山で、突厥の首都となり、7世紀中頃、唐が東突厥を滅ぼして安北都護府を置いて北方遊牧民の支配の拠点としていた。新羅・高句麗遺民連合軍のウチュケン山攻撃は唐王朝に衝撃を与え、新羅軍は動揺した唐の百済駐留軍を攻撃して百済地域を占領しました。
 倭国で大海人皇子が吉野に引退した天智天皇10年(671)、唐に渡って華厳宗の第二祖智儼(ちごん)に学んだ義湘(ぎしょう)が新羅に帰国し、文武王は華厳宗の浮石寺を建立して、「全体は部分、部分は全体」という華厳思想の世界観に基づいて、数百年に渡って戦ってきた韓半島の三国の共同体の差別を排除し、それらの成員を新羅国民と認めて、その融和を表明したのです。

 壬申の乱がおこった天武天皇元年(672)、ウチュケン山を平定して北方の動揺を抑えた唐軍は靺鞨軍と連合して平壌を占領し高句麗復興軍は衰えた。ここに唐と新羅の関係は膠着状態となったが、新羅軍はたびたび唐軍を破り、天武天皇4年(675)、ついに錦江河口に旧百済領を占領していた唐軍を壊滅させた。この頃、唐の高宗の皇后、武則天(武則天の称号は様々に変化するので、以降も武則天とする)が垂簾政治を行って国政の実権を握り、余りにも国費を消耗する韓半島の支配をあきらめ、旧百済を管轄する熊津都督府・旧高句麗を管轄する安東都護府を遼東城にひきあげ、いわゆる統一新羅が成立したのです。倭国は新羅独立戦争のお陰で、律令国家体制を整えることができたといえましょう。
 この675年、唐の高宗は、唐国の安寧を願って洛陽郊外の龍門石窟に六十華厳に基づく大毘盧遮那大仏を築き、奉先寺を建立しました。その大盧舎那像は武則天が脂粉銭2万貫を施助し、華北の浄土教徒を率いた善導の勧進によって完成し、その容姿は武則天に似せたという。その世界像や教義はすばらしいものであったとしても、華北に五胡十六国が興亡した時代、南朝の東晋時代に翻訳された佛馱跋陀羅(ブッダバダラ)訳『華厳経』(六十華厳)は漢文化に対応して、夷狄差別、女性差別や性表現の音訳などが混在し、武則天の意にそまなかったわけです。武則天は中華思想を越えて諸民族を融和させる“真の『華厳経』”を中央アジアに求めさせた。

 倭国の天武天皇が飛鳥浄御原令を制定した天武天皇10年(681)、新羅の文武王が亡くなり、神文王が即位し、統一新羅の中央官庁の整備、地方統治制度を確立していった。統一新羅を旧高句麗・百済・新羅の領域にそれぞれ三州が置かれるかたちに編成して地方を管轄しました。この間、唐では武則天が皇帝叡宗を傀儡化し、出自を問わない才能を発掘に尽くし、韓半島出兵に悪化した国家財政の健全な回復策、庶民の生活の充実をはかった。これは地方を管轄した王となっていた唐皇族、貴族の既得利権を侵害し、唐の各地に皇族・貴族の反乱が起り、これを武則天は次々に滅ぼして政権を安定化させた。その背景には農民・庶民・貿易商人、領内の異民族の武則天の政策への支持があったわけです。
 倭国の持統天皇4年(690)、則天武后は帝位に就き、国号を「周」とし、聖神皇帝と称した。倭国の持統天皇4年(695)、パミール高原の北、ホータン(于闐)から実叉難陀(じっしゃなんだ: Śikṣānanda)が長安に来訪し、仏授記寺に於いて南インドの沙門の菩提流志、義浄三蔵や法蔵とともに新訳『華厳経』(八十華厳)を翻訳したのです。武則天は六十華厳の世界像を剽窃し、マニ教を混在させて、女帝の出現が世界を安定させると説く『大雲経』を広め、長安・洛陽、全国諸州に大雲寺を建立していました。
 周の聖神皇帝となった武則天は新訳『華厳経』(八十華厳)に感動し、大雲寺でこれを説かせました。則天武后悪女説は中華思想が抱えた華夷差別・官民差別・女性差別観が結集された結果の論説であって、一人の帝王、則天武后を事跡の積み重ねによって解析すれば、失政はなしとはしないが、唐帝国の領域を再生させた偉大な女帝と認めるべきしょう。則天武后の統治下に、中華思想の王朝の下で常習的に発生した農民・下層民の反乱は、一度も起らなかった。


◎日本国の成立と武則天の周との講和
 旧高句麗領は朝鮮系高句麗人・契丹人・靺鞨人・女真人などの合従連衡状態となり、周の女帝となった武則天はその対立関係を利用して、それぞれの首長に官職を与えて収奪をはかる羈縻政策(きびせいさく)を施した。これに対して粟末靺鞨人の首長、乞乞仲象(きつきつちゅうしょう)は高句麗遺民と共に独立を謀り、その息子とされる大祚栄(だいそえい)は高句麗の故地へ進出し、東牟山(今の吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)に都城を築いて、対立する諸族の統合を進め、698年、震国を建国しました。これが渤海国に発展します。今も鴨緑江の北に朝鮮族自治州が広がっていて、北朝鮮問題はこれを抜きに語ることはできません。
 新羅華厳宗の確立者・義湘は、文武王の後を継いで則天武后の周に冊封された孝昭王が亡くなった、倭国の大宝2年(702)まで生きて、義湘十哲を育て、統一新羅の首都金城と九州の拠点に海印寺・玉泉寺・梵漁寺・華厳寺などの華厳十刹を定めて、いわば華厳思想を共有する新羅人を国民とする統一新羅の形成に大きく寄与しました。
 この大宝2年(702)、持統天皇は、14歳の文武天皇に譲位しながら、持統太上天皇として倭国の首長として君臨し、天武天皇が念願した大宝律令を全国に施行しました。同時に内外の交易体制に必須の国際規格に基づく度器・量器を初めて全国に頒布しています。持統太上天皇は、則天武后の周が安定したのを睨んで、国際社会への復帰を目指し、国号を倭国から日本に改め、粟田真人・山上憶良を派遣して則天武后の周に派遣し、白村江の戦い以来、倭国を敵国視していた則天武后政権との国交を回復したのです。
 この周の武則天のもとに派遣された使節は、倭国は日本によって滅ぼされ、今は日本が律令国家となって政権を運営しているとしたわけです。

 余談になりますが、「日本」という国号の用例は、大宝律令に天皇を規定した「明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと)」とされている。この「明神御宇日本天皇」という称号は、『日本書記』の孝徳紀に現れ、大化の改新の時期に定められていました。この「日本」という国号が国際的に用いられのはいつかは不明ですが、『三国史記』に統一新羅の孝昭王が、698年(文武天皇2年)、日本国の使者を引見したとあり、持統天皇が孫の軽皇子に譲位し、文武天皇を擁立したときに、持統太上天皇が日本という国号を国際的に用いることとしたとするのが妥当な見解といえましょう。
武則天政権の周は、705年、武則天が病衰したのに乗じて、宰相の張柬之化(ちょうかんし)が則天武后の寵愛をうけた張易之・昌宗兄弟を除く宮廷クーデターをおこし、武則天に「則天大聖皇帝」の尊称を奉って帝位を退かせ、中宗を復位させて、唐の国号を回復しました。その後も武則天は太后としての権力を維持し、高宗と武則天の間に生まれた太平公主や則天武后の甥で周の皇太子になることを期待された武三思などに唐復興に伴う粛清は及ばなかった。その年末、則天武后は81歳の生涯を終えました。
 ところが、中宗の皇后、韋皇后は武則天をまねて政権を掌握しようとし、夫で皇帝の中宗を毒殺し、擁立した殤帝を傀儡として帝位を禅譲させようと企てたのです。ここに皇太子李重俊が韋后に対してクーデターを起こしたが失敗した。李重俊の弟、李隆基は太平公主と結んで韋后排除を謀り、710年、クーデターによって韋皇后と韋氏一族を皆殺しにして、武則天が廃位した睿宗を重祚させ、隆基は皇太子となった。こうして女帝を夢見る太平公主と李隆基の間に亀裂が生じました。712年、皇太子隆基は睿宗から禅譲されて、玄宗に即位し、武則天・太平公主の一族を粛清したのです。
 玄宗は武則天の周の極東政策を改め、統一新羅の聖徳王をして遼東から山東へと拡張しようとする渤海国を防がせた。渤海とは、今の黄海の奥の沿岸地帯で、初代の大祚栄(だいそえい)が唐から渤海群主に任じられたので、その地域は渤海領だと主張しはじめたのです。玄宗は渤海国の北の靺鞨(まつかつ)に兵器や絹などの賜物を下して、渤海を挟撃しようとした。

 このような玄宗の登場を待っていたかのように密教が唐に流入しました。716年、善無畏(ぜんむい)が長安に入り、『大毘盧遮那成仏神変加持経』(大日経)、『虚空蔵求聞持法』などを翻訳したのです。善無畏はマガダ王だったといい、兄弟との内戦を制してナーランダ寺院に達摩掬多(だるまきくた)から顕密両教を学び、密教の東方伝道をこころざした。続いて、719年、南海路を通じて、南インド王の豪華な朝貢船の兵員に守られて、金剛智が広州に来訪し、翌年、洛陽に入ったのです。
 金剛智は摩頼耶国の生まれといい、ナーランダ寺院に声明、因明(インド論理学)を学び、勝賢から『唯識論』『瑜伽師地論』(唯識哲学)に通じた。さらに南インドに赴いて、「空」を発見した龍樹の哲学を継承した龍智の弟子となった。この南インドがどこかといえば、海洋貿易国で、唐に使者を送り、仏教の総合研究施設があるとなれば、東南インドのパッラヴァ朝でしょう。パッラヴァ朝の首都カーンチープラムにはカイラサナータ寺院があり、海市マハーバリプラムには、「海岸寺院」が建てられていた。
 こうして、玄宗は二つの密教を唐帝室の宗教として統合しようとしましたが、これは完成しなかった。玄宗亡き後、密教は弾圧されるようになり、これを空海が持ち帰って、日本の「空海密教」を編集するわけです。それは、今回の案内文では省いて、
 いずれにせよ、この頃から、日本は「法相宗」から、それを基盤とする「華厳宗」へと以降し、さらに天智朝の復活とともに、最澄が天台宗を導入するわけです。
 ちょっと書きすぎて、紙幅が切れました。第二回の案内文において、この続きをアップいたします。お楽しみに。

 

輪読座 日本哲学シリーズ第五弾
「空海・最澄 両読み①」

日 時

2017年10月29日(日)
2017年11月26日(日)
2017年12月24日(日)
2018年1月28日(日)
2018年2月25日(日)
2018年3月25日(日)
すべて13:00~18:30

定  員

30名

受講資格

どなたでも

受 講 料

◎リアル講座:6回分 54,000円(税込)

*記録音声・映像、資料などは随時共有いたします。
※クレジットカードがご利用になれます。(分割払い可能)

◎サテライト講座:6回分 32,400円(税込)